伊馬春部さんについて(前編)

5月30日は、1908年に生まれた伊馬春部(いまはるべ)さんの誕生日です。今はご存じない方が多いでしょう。何はともあれ僕は、僕の名付け親と父親から言われて育ちました。
現在はネットがあるのでいろいろわかります。本名は高崎英雄さん。福岡出身で、大学卒業後は昔の新宿にあったムーランルージュという劇場で喜劇等の脚本家になりました。太宰治とも親交があったそうです。戦前戦後を通じてラジオやテレビの劇作家として活躍され、数多くの賞を受賞されました。
そんな有名な方に、作家志望だった若き日の父親は弟子入りしたというんですね。朝日新聞あたりの応募小説で新人賞っぽいものを取ったらしいのですが、「懸賞作家は芽が出ない」のが当時のジンクスらしく、長男である僕が生まれるのを機会にヤクザな世界から足を洗ったのだと。
「その伊馬先生が十七男と名付けた」
幼い頃の僕が聞かされたのはそこまででした。物心がついたときの父親は、毎日規則正しく出勤と帰宅を繰り返すまっとうなサラリーマンでしたから、作家志望の片鱗はうかがえませんでした。ただ、狭い家をより狭くする大量の本を大事にしていたので、小説家を目指した人とはそういうものだろうと、父親の話を疑うこともなかった。そう言えば、受賞者として顏写真が載った新聞の切り抜きを見た覚えもあります。
いずれにせよ僕にとって伊馬春部という人物は、ファンタジーに近い存在でした。何しろご本人にも作品にも触れたことがなかったから、無理ないと言えばそうで。ところがある日突然、その人が現実味を帯びたのです。
1984年だから僕が22歳になる年の3月。伊馬先生の訃報が新聞に掲載されました。それを目にした父親は、僕に向かってつぶやいたのです。「どうしよう」と。おそらく、僕の生年分だけ交流を断っていたかつての師の最期を知り、狼狽する他になかったのでしょう。その姿を見て、僕はなぜか苛立ちました。「どうもこうもないだろう。記事にある斎場に行けばいいじゃないか。オレも付き合ってやる」。そう怒気を交えて言い放ち、結果的に父親とクルマで杉並の寺院に向かったのですが、今思えば僕に背中を押してもらいたかったのかもしれません。袂を分かつしかなかった人との縁を名前で表しているが長男だから。
寺院に着いても僕は中に入りませんでした。そこは父親一人でお別れを述べるのが正しいように思えたからです。それにしても、葬儀によって実在が明らかになるのは皮肉ですね。入り口の看板に伊馬春部と書かれていたのかな。それはよく思い出せませんが、これでついに名付け親との対面は叶わないと釘を刺された微かなショックだけは記憶に残っています。できればお会いして、どうして十七男としたのかたずねてみたかった。それから、若き日の父親のことも。
この話には続きがあります。伊馬先生の実像がもう少し鮮明になるエピソードです。せっかくなので、明日また書かせてください。

新しい橋を架けるらしい。

 

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