その9/井の頭公園いりぐち、『いせや』のやきとり
お金がなくても愛があった若い頃から
通い慣れた店がついに姿を変える……。
今日の森さん、胸に吹く郷愁のすき間風、を語ります。
高校を卒業して、九州から東京にやって来た春、
部屋を探しに降りた街は、もちろん! 中央線の吉祥寺。
でも、どうにもこうにも、予算内の部屋が見つからず、
中央線を下って、下って、武蔵小金井に落ち着いた。
吉祥寺にはバンド仲間の彼女がジャズ喫茶で働いていたから、
帰りには布団屋のカレシの車で小金井まで送ってもらえる。
だから、お金もないのによく吉祥寺で飲んだくれた。
2000円なんて大金がある日は、『いせや』に直行した。
下にコップを敷いた厚手のコップになみなみの焼酎。
カウンターに置いてある梅シロップをちょいと入れる。
言っとくが、その頃はまだサワーなんてなかった。
言っとくが、その頃はまだ学生にビールなんて許されなかった。
そして、やきとりをどんどん食い、煮込みを食べても、
やっぱりというか、さすがというか、2000円には届かない。
思えば、あの春から30年ちっとも変わらない『いせや』が、
吉祥寺のランドマークだった木造建築が、取り壊される。
やっとこさ駆けつけた最終日の9月25日、長蛇の列だった。
あきらめて、写真だけを撮って行く人、記念撮影する人。
きっと、みんなの数だけ『いせや』が存在するんだろう。
今日もポケットの中には、昔とおんなじ2000円。
別に、想い出に予算を合わせたわけじゃない。
フリーランスなんて、結局フリーターとおんなじ。
みんなが給料日で沸いてる頃、いつもすっからかん。
当てにならない振り込みを待ち詫びながら暮らしてる。
しかし、『いせや』のやきとりは、まだまだ80円だ!
ジャンボ・シューマイは思い切り大きく、ジューシー。
炭酸一本で割ったチューハイは、ぴったし250円。
築80年の木造建築の中、人の幸せが一杯になってる。
でも、今度来るときにはビルの中の店舗になる。
別に『いせや』が変わるわけではないけど、
この寂しさはどうしようもない。時代が変わって行く、
それは僕にとっては、中目の『ばん』が、
吉祥寺の『いせや』が無くなっていくことだ。
味というのは、その店の人や建物も含まれている。
どうして鳩山会館や、小笠原記念館があるのに、
ばん記念館や、いせや記念会館はできないのだろう。
居酒屋だって、立派な世界遺産だって思うけどなあ……。
いかん、名も無き甲類焼酎の酔いがまわってきた。
さようなら、僕の吉祥寺。愛だけで一杯だった日々。
変わったほうがいいもの、変わらないほうがいいもの。それは誰が判断するんでしょうね……。(T.T.)

それぞれの「引き出し」を
つくっているのはこんなひとたちです。