その13/神田神保町どまんなか、『ランチョン』のカキフライ
懐かしい曲のイントロからカキフライに飛び、
果ては文化の瞬間にまで羽ばたく……。
今日のアテは、シュールな秋味でお届けします。
「4月になれば彼女は」というポール・サイモンの歌がある。
昔、フォークギター(今はアコギですな)初心者なら、誰でも
あの可愛いイントロにチャレンジした想い出があるはずだ。
Dを押さえたまま、7フレットまで指をスライドさせて、
ちょうどGの音が鳴るところまで持って行ってアルペジオ。
そんなに難しいテクじゃないけど、すごくカッコいい音がする。
「スカボローフェア」はAmの形のままでスライドさせる。
サイモン&ガーファンクルの曲は弾いても楽しいものが多い。
「4月になれば彼女は」のイントロをそのまま使って始まる
チューリップの曲はなんというタイトルだっただろう?
懐かしいイントロをポロンポロンと弾いているうちに、
カレンダーが10月に変わっていることに気がついた。
「10月になればアテは」、もう絶対にカキフライしかない。
カキフライの名店は銀座の『三州屋』とか、築地の『八千代』とか、
大井町の『廣田』とか、すぐにたくさん思いつくことができる。
でも僕は、やっぱり昔からのビアホール、『ランチョン』に行く。
もっと世界中に誇っていいと思う、良質で膨大な古本の街、
神保町には、個性的でおいしい店や、素敵な喫茶店も多い。
「とりあえず、ビール」、そんな声が乱れ飛ぶ居酒屋の中、
僕は決してビールで乾杯することはない、最初から焼酎、
最初から泡盛、最初からウォッカ、最初からハイボール。
最初の一口から、ずーっと同じ酒、ビールはまず飲まない。
ビールを飲みたければ、ちゃんと、ビアホールに行く。
ビールほど、注ぐ人によって味が変わってしまう酒はない。
それを知ったのは30年前、まだ一戸建てだった『ランチョン』で、
先代のご主人が注いだグラスのビールを飲んだときだった。
『ランチョン』には、ジョッキなんて野暮なものは存在しない。
ビールがいちばんおいしい、ちょうどいい大きさのグラスだけだ。
そして、ビールをおいしくする様々なアテが用意されている。
熱々のジャーマンポテトに、辛口のウスターソースをジュっ。
自家製マヨネーズが添えられた、生野菜のサラダもたまらない。
巨大なメンチカツは限りなくジューシーで、ビールが進む。
オムライスを頂点とする〆のご飯ものも、どれも旨い。
そして、常連が楽しみにしているのは10月からのカキだ。
『ランチョン』は10月になると、食べ物メニューが一枚増える。
その一枚が全部、なんとカキのメニューで覆いつくされる。
工夫をこらしたカキ料理はどれもおいしいけど、やっぱり、
やっぱり! カキは生か、カキフライ!! もう辛抱たまらない旨さ。
ビアホールである以前に、良質な洋食屋でもあるという至福。
『ランチョン』には下戸だって長年通うファンがたくさんいる。
神保町の古本屋街で、さっき見つけた本やCDを抱えて、
家まで我慢できない小学生の気分になって、『ランチョン』へ。
さっそく封を開けているところに、おいしいビールが!
もしかしたら、この瞬間が文化っていうものかもしれない。
『ランチョン』にはいつも、凛とした歴史と文化の匂いがする。
その昔、ハイカラな芸大生たちが夜な夜な芸術を語った店。
その頃、店にはちゃんとした名前なんかついていなかった。
でも、おいしい洋食が食えるから『ランチョン』だと、
学生たちの誰かが言い出し、そのまま今日に至ったという。
日本のカルチェラタンならではの素敵なエピソードだ。
悲しみと共に飲む酒は、なおさらハートを切り刻んでいく。
街中の酒場で耳にする上司の愚痴なんて、史上最低のアテだ。
山之口獏の詩集を捲りながら、黙々とグラスを傾ける老人。
インディーズのロックンロール、コピー用紙の歌詞カードから、
ずーっと目を離さないタータンチェックのピアス少女。
『ランチョン』の空気そのものが、最上質のアテなのかもしれない。
個人的な話ですが、僕は生ガキよりカキフライのほうが好きです。土手鍋も捨てがたいですけどね。(T.T.)

それぞれの「引き出し」を
つくっているのはこんなひとたちです。