憧れの午前中

『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の後半で、午前4時少し前に
電話をかけられた沙羅がこう切り返すセリフがあります。
「そんな時間が実際にあったことすら知らなかったな」
あるんですよ沙羅さん。そういう時間に消耗戦と化した文化的雪かきを
繰り返している男とは僕のことです。なんてな。

そんなふうにして、最近なら空が白み出してから寝るような生活をしていると、
午前中という時間帯を失うことになります。どんな時間に目覚めようと
そこから数時間は自分にとっての午前中なんだと主張してみても、
午前中を構成する日の光や温度は、やはり日の出から正午までにしか存在しません。

土曜日の青山、午前9時50分。銀杏並木にあるカフェにはもうたくさんの客がいて、
薄曇りの下でお茶を飲んでいる。お休みなのになあ、と常に午前中を持たない僕は
ひねた目でその光景を眺めるけれど、まだそれほど人が出ていない並木通りは
おだやかで涼しげで、つまりはさわやかで、そういう時間をのんびり過ごすのは
悪くないと、かすかに残るまともな僕の中の本能が、そういう感想を持ち上げます。

そうだね、確かに午前中は美しい。それを切り捨てることにどれだけ意味があるかと
言えば、たぶんほとんどない。DNAに組み込まれた体内時計にしても午前中ありきで
作動するはずだし、だからそこを黒く塗りつぶしていると、
いつかネジや歯車や文字盤が壊れるかもしれない。それは怖いよなあ。

などと考えつつ午前の約束に向けて歩いていても、3時間しか寝ていない頭は
全然起きてこず、かろうじて表面だけ起動させた僕の精神は、
やれやれそんな時間が実際にあるなんてと、ひねたセリフしか吐けないのです。