言った本人は何気ないつもりでも、聞いたほうには重い発言、というものがあります。
「普段話すように文章を書ける人が上手い人」
うんと昔、あるイラストレーターが口にした言葉です。
たとえば雑誌を定食にたとえると、何が主食や主菜や副菜かはさておき、
文章やイラストまたは写真、それを納めるデザインはそれぞれが隣り合う関係ですから、
他者とのバランスを気遣うわけです。そのひとつのイラストが文章の良し悪しを語った。
これはもう慎重に聞き入れる以外にありません。
話すように書く。これは本当に難しい。けれど、ひとまずそれを目的にするなら、
やはり自分が普段使う言葉の選び方に注意するしかない。
僕は基本的に「ら抜き」言葉を会話に用いません。
なので特別な意図がない限りは文章でも使わない。
言葉というのは生き物ですから、たとえば美しい日本語も時代によって変わります。
大人は常に「若者の日本語は乱れておる」と目くじら立てますが、
美麗とされる大和言葉を日常的に使っていた何十世代も前の人々にすれば、
今の大人も今の若者と五十歩百歩でしょう。
偉そうに「ら抜き」はしないと言っている僕も、「マジ」とか「ダサ」とか「ヤバい」
というような、そこそこの大人なら避けるべき今日的慣用句を普通に使います。
そのほうが会話に今的リズムが出るし、まぁ楽です。
ただし、「ら抜き」だけは国語うんぬん以前に品性の乏しさを感じてしまうんですね。
「食べられる」を「食べれる」と言ったところで事件は起きない。
でもやはり、わずか一音の違いであっても使う言葉には人間性が表現されるものだから、
どうでもいいといいわけにはいきません。
ら=ラ=G。
Gの和音はステキなメロディの基本線だよなあ。って何の話だか不明ですが、
人にはどうでもいいこだわりがそれぞれの生きるルールになることは多々あります。
「ら抜き」の人をたしなめたりはしません。が、僕は「ら抜かず」でいきます。
僕なりの品性を保つために。