引き算の美学

前に京都の福知山で狂言を見る機会に恵まれたという話をしました。
初めて触れた伝統芸能ですが、興味深かったことのひとつは「つもり」でした。
狂言には基本的に、情景を伝えるための大道具がないんですってね。
だから演者が舞台に表れると、まずは場面設定を語るんだそうです。
僕が見た『柿山伏』もそうでした。そこに実がなった柿の木がある、というように。
お腹を空かせた山伏がその柿の木に登りますが、柿の木に見立てるのは
葛桶と呼ばれるらしい高さ40センチ程度の円筒です。
それを観客は、柿の木のつもりとして見ます。
これが不思議でねぇ、お芝居が進むと次第に柿の木に見えてくるんですよ。
っていうのはウソ。葛桶は最後まで葛桶です。
しかし、それが何であるかはすぐにどうでもよくなるんですね。
なぜなら、僕ら観客の意識はすべて演者に絡めとられてしまうから。
それが演劇の魔力というか魅力なんでしょうね。そもそも芝居自体がつもりですし。
狂言は徹底した引き算でした。
わびさびを語る自信はないけれど、狂言が日本の伝統として受け継がれてきたのなら、
日本人が何かを愛でる理由には引き算が潜んでいるのでしょう。
そしてまた、僕らはつもりを受け入れられる想像力も持ち併せているのだと、
そんな風に感じました。
ああ、引き算の美学に裏打ちされた文章が書けるようになりたい。マジで。

オオフチさんの『NYほかけ舟』更新。日本とアメリカのスナップ・コラボです。