正義と正義感

正義を語るには、誰が見ても明らかな論理的データが必要だと思うんです。
その一方、正義感はデータなど不要で語る自由があります。
あ~あ、難しい話に手を出しちゃった。
まぁとにかく、僕は正義感が強いと自負する人には警戒心を抱きます。
なぜなら、あくまで個人の感覚だからです。
どんなに理論を尽くしても、あるいは理論武装を厚くするほど、
正義感は頑なになっていく気がする。そこが怖いんです。
怖いという点では悪意の強い人も警戒するけれど、対処の方法はありそうなんですね。
悪に対して純粋だから。いや正義感のほうがピュアだろうという意見もあるでしょうが、
正義を錦の旗頭に個々の観念を振り回すと、おそらく収拾がつかなくなります。
戦争やテロがその見本です。
たとえば僕が社会正義の名のもとに筆の力を使ってこの世の悪と思われる事件や事故を
追求したとします。いろんな証言や証拠を集め、それらしき答えが見えてくると、
それはそれは気持ちよく筆が進みそうです。何しろ正義がバックに控えているから。
でも、じゃ社会って何だ、正義って何だと常に疑ってかかる意識を失うと、
自分に都合のいい、自分だけが爽快な気分になる記事しか書けなくなりそうで怖い。
公明正大や公共性や中立の立場なんかにしてもそうで、
書いている本人は公明でも正大でもなく、そしてまた個人である以上、
公共性や中立性など保てるはずがない。偏って当然。
そういう大前提を持っていないと正義感に飲み込まれてしまいます。
この件は、あるスクープの現場で不当に扱われた立場の側から聞いた話が立脚点です。
事実の付箋だけをつなぎ合わせても記事になる怖さについて考えさせられました。

エミさんの『空気日誌』更新! 子供たちとの海外旅行、完結編です。