晴れた日にすべき吐露

そこそこ生きてきて、様々な場面に遭遇したとき、自分がどういう行動を取るか、
そこにどんな感情が芽生えるか、それなりに把握しているつもりではいるんです。
己を知るってヤツですね。そしてそれらの反応は、
出来るだけ間口と奥行きをたたえられるように、
瞬発力は維持しながら過敏ではなくおだやかに動くことを願ってきたわけです。
人としての深みを増したくて。
それでもやっぱり極端な出来事を目の前にすると、素というか本性が顔を出して、
できれば会いたくない自分と出くわしちまうのです。
話がわかりにくい? そうだなあ。好きになる女性のタイプは案外変わるけれど
嫌いになる人はちっとも変わらないと言ったほうがこの場合ふさわしい気がします。
要するに、好きになるもの・なれるものの幅は広げられても、
嫌いになるもの・なってしまうものの境界線は意外にも揺るがず、
まるで頑丈な金庫のように僕の中のどこかでずんと居座っているんじゃないかと
そんなふうに思うのです。その境界線を越えるような何かが起こり、
滅多なことでは開かないはずの金庫のフタが開くと、会いたくもない自分が顔を出す。
受け入れ難いですね。まったくガキのままじゃねぇかと、そりゃがっかりします。
しかも、同じ出来事に直面した他の大勢と自分の感情が異なると不安になります。
仲間外れは言い過ぎだけど、自分だけこんなに感情が昂るというのは
仲間になる資格がないのかもしれないと。
などとひとりで悶々と考え続けると精神を病みそうですが、やがて気付くんです。
受け入れ難い自分を受け入れるのは自分しかいないという自己愛の目覚めに。
そうして平面螺旋のごとく同じ場所をぐるぐると、ゼンマイを巻くように生きていく。
なんてどうしようもない吐露は、晴れた日にすべきです。
ようやく秋らしい空が広がりました。なので......。