楽しい時間

たとえば飲み屋さんという場所では、誰かが誰かを自然と紹介してくれるのが
一種の習わしになっているようです。なので僕の場合は、「この人ライターさん」
ってな感じになるわけですが、そんな商売をしている人間が相対的に少ないからか、
ライターと聞いてたいがいの方が「へぇ~」となり、第一声で多いのは
「文章を書けるってスゴいですね」です。この問いに対して僕は、
「誰でも書けますよ」と小声でお茶を濁すことにしています。本当にそうだろうし、
何かのスゴさについて語るなら他のことがいいと思うから。
次いで飛び出す質問にはこんなものがあります。「やっぱり本はたくさん読みます?」
これも答えに窮します。物事にはすべからく、やりたい人と見たい人の両極が
存在していると思うんですね。文章にしても、書きたい人と読みたい人がいる。
僕は前者です。そして現実的に、僕の読書量は人に自慢できるものではありません。
というような、聞けば面倒臭い事情をいかにコンパクトに伝えるか考えている間に、
相手は別の言葉を切り出します。「最後まで読めた本は数冊しかないんですよねぇ」
そのセリフに関してなら適当な言葉が返せます。
それはまだ、最後まで読みたくなる本に出会えていないから。
誰にとっても限りある時間を有意義に過ごすなら、心から楽しいと感じられるものに
心を奪われたほうがいいですよね。それは必ずしも本ではなく、
音楽や洋服やゲームや、家族や恋人との触れ合いとか、もう何でもいいわけです。
そんな星の数ほどある興味の対象の中から、最後まで読まずにいられなくなる本に
出会える機会なんてそうはない。ましてや僕の書いたものが見知らぬ誰かの時間を
頂戴するなんて、今とは違う宇宙が突然生まれるほどの奇跡かもしれません。
そしてもしライターという仕事がスゴいなら、そうした呆れるようなミラクルを
一方的に信じて自分の時間を費やしているアホさ加減だと評してくれたなら、
僕はその人に好きなだけ飲ませてあげたい。
なんてことは、おそらく飲み屋さんの空気にふさわしくないので口にしません。
そこは楽しい時間を過ごす場所だからね。

オオフチさんの『NYほかけ舟』更新。淡々と冬になる時間を実感する日々だそうな。