初めての春

午前6時過ぎにみぞれ交じりの雨が降った朝、洗面所で歯を磨いていたら、
白い洗面台の右端に小さな黒い点を見つけた。歯磨き粉が垂れると面倒な
ので視線だけ下げると、それに気づいたように小さな黒い点がふっと宙に
浮かび上がった。そのまま真っすぐ上昇し、僕の顔当たりまで来たところ
で緩やかなカーブを描いて右から左へとゆっくり過ぎ去った。この部屋で
はこんなふうに虫が現れるのかと、手を出せばつぶせると思いながら、
その無防備な飛翔を見送った。
ここに越してきてほぼ5カ月。その前の部屋は約3年。正確に言えば2年と
11カ月を過ごした。2年に一度の更新にはまだ間があったから、友人たち
からはその中途半端なタイミングをずいぶん訝しがられた。自分にしても、
計画的な引っ越しではなかった。ただ、最初から感じていた築年数の古さ
からくる住みにくさに加え、仕事上の波みたいなものをきっかけにして、
呆気ないほど速やかに部屋を出る覚悟を決めた。記憶にある限り、3年足
らずの引っ越しはたぶん初めてのことだ。だから自分の決定に自分で驚い
たりもしたけれど、前の部屋で季節の移り変わりを三度経験して、もう十
分だと悟ったのだろう。これ以上の長居はただの惰性であり、好きな言葉
ではないが生産性を感じなかったのだ。暮らしの中で何を生産するかは別
の機会に考えるとして。
そうして新しい部屋に住み、この間取りに適した暖房方法が見つけられな
いままの冬を経て、ついに虫が現れた。それはいわば、この部屋の啓蟄の
日だ。これから日々気温が高まっていくと、ここはどんな様子を見せるの
だろうか。あるいはこの間取りに適した冷房方法が見つけられない初めて
の夏となってうんざりするのだろうか。それでもまた3年は受け入れるつ
もりでいるのだろうか。いろいろよくわからないけれど、次に飛翔する黒
い点を見かけたら、今度は躊躇なく手を伸ばすに違いない。
なんて、どうでもいい文章を、なぜか千駄木で書いています。