ずれている人

ずれている人と話すのは難しい。1対1なら相手がずれているんだと、
イーブンな対立ですみます。しかし、複数名がひとつの結論を
出そうとする場合にずれている人がいると、
それとなく哀れみを覚えてしまうんですね。
もちろんマジョリティが絶対であってはならない。
意見を数で選ぶのはフェアじゃない。
ただ、ずれている人というのは、反対を表明するわけじゃない。
3階で会議しているのにひとり屋上にいるような
場違いさに気付かないというより、まったく気にしないのです。
となると、見えている景色が違うから目の前の現場の風向きを
どんなに説明しても理解できない。
気の毒なことだなあと、これはマジョリティ目線に立った感覚ですが、
どうにも哀れんでしまうわけです。
あるいは天才は、そうした決定的なずれを
生まれ持った人なのかもしれません。
だから、哀れみを覚えまいと必死で場の風向きを
説明試みる僕らは、いや僕は、
彼らにすれば凡すぎて悲しみの対象に映るのかもしれない。
どうなんだろう? 
というような感想を先日のある議論で抱きました。
あのずれっぷりは天才ゆえだろうか。ふ~む。
違うな、というのが今のところの結論です。