僕のマーチン君

正確な日付を記録しておかなかったのはミスですが、少なくとも20年前の今日あたりは、僕の手元に“僕のマーチン君”がいたはずです。マーチン君とは、有名なアメリカのギターメーカー。綴りはMartinなので、カタカナ表記ではマーティンが妥当ですが、僕なんかにも親しくしてくれる近しい存在になってくれた感謝を込めて、自分のギターだけはそう呼ぶことにしているのです。
一般的にギターは、手づくり部分が多いとはいえ工場で生産される製品なので、それがいかに高級ブランドであっても、値段がつけば誰だって買うことができます。でも、「オレが買っちゃっていいのか?」という、分不相応感に苛まれ続けたのがマーティンでした。それじゃないものでもギターとしての機能は果たしてくれるし、そもそも素人のギター好きが何十万円もする銘品を手に入れてどうするんだって話じゃないですか。何よりも、高嶺の花は高いところで咲くから美しく見えるはずだし。
そんなふうにして憧れで終わるはずだったマーティンを、20年前の40歳になったばかりの僕が買ったのでした。いくつかの運と縁が重なった結果ですが、もっとも大きな要因は、その夏の父親の他界でした。人生に限りがあることを、想像だにしなかった激しさで思い知らされたのです。あんなに大きな虚無感と焦燥感のドツボにはまったのは初めてでした。
その穴を埋めるため、半ば自暴自棄で憧れ続けたギターを買い込んだわけではないのだけれど、いずれにしてもあの2002年という年は、その渦中で自分でも「何かおかしい」と気づくほどの奇妙な運と縁が連続しました。
そうして僕は、『僕のマーチン君』という、言ってみればギターを買った顛末を記しただけの、それこそ奇妙極まりない書下ろし文庫を著すことになります。あれほど強く「書きたい」という衝動に晒されたのも初めてでした。叶いようのない願いですが、できれば父親に読んでほしかったです。
さておき、ギターについてよく考えるのは、1本のギターが完成するまでには、まずギターになるための樹木が育つ歳月があり、さらにはギターに適する木材となるまで熟成(乾燥)させる年月を要すること。その上で製品となり僕の手元に来て20年となれば、圧倒的な時間の量を感じずにはいられなくなるのです。だから今日もすぐそばにいてくれるマーチン君を弾くたび、自分のものでありながら自分のものではないような、何かを託されているような気持になるんですよね。
そんな感慨を抱かせるのは、やはりマーティンが優れた存在だからでしょう。40歳の邂逅は決して早いとは言えないだろうけど、出会えなかった人生は考えられないと、あれから20年経った今でもそう思います。そういうのを人は、宝物と呼ぶんでしょうね。

20年経ったギターと、18年前の迷著。

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