一昨日の晩、いつもの飲み屋で顔見知りに会ったら、今夜は深酒できないと言いながら2杯目を頼んでいました。
「明日の子供の入学式には必ず参加するってカミさんと約束しちゃったから」
そもそも大事な用事があるなら来なきゃいいのにと思うわけですが、飲んべは結局いつでも言い訳が必要なんでしょうね。
ふと思うのは、子供の式典は親にとっても大事なものということ。どんな場合でも、「あんなに小さかったのに」とか「こんなに大きくなって」といった感慨が胸に迫るのではないでしょうか。
片や子供がいない僕は、おそらく残念ながら親の立場は想像の域を出ません。なので、いつまで経っても子供の立場でしか振り返ることができないけれど、これまでの人生でいくつか経験した入学式でもっとも思い出深いのは、小学校のそれでした。
ずいぶん前にも書いた記憶がありますが、初めて入った体育館の、遥か高いところで輝く水銀灯の光が滲んで見えたのです。あれはたぶん、人生で初めての感涙だった。
さらに、式の後で下駄箱にたどり着いたら、自分の名前がなかった。正確に言えば、「たむらとなお」ではなく「たむらとしお」という自分らしき名前は発見できた。そのとき、こう思ったのです。「大人たちはいつもこんな間違いをする」と。だから先生には、「ボクの名前がありません」ではなく、「ボクの名前が違っているようです」と淀みなく伝えました。
そんなことがあったので、入学式の記憶に関しては、現在からもっとも遠い小学校が色濃いのかもしれません。あるいは、誰かに諭されたのか、または自発的に意識したのか、小学校の入学式には何かが始まる極めて大きな予感を覚えていたんじゃないかと、そんなふうにも考えられます。
一方、それ以外の入学式の記憶が薄いのは、小学校のときほどの予感、ないしはその前の卒業式で何かを確実に終わらせた実感を得なかったのかもしれません。それがセンスの問題だとしたら、僕の精神的な成長は、小学校の入学式がピークだった可能性が高くなります。
例によってグタグタ言っていますが、保護者の方々の感慨とは別に、子供は子供なりに、言語化できずともいろいろ感じているものですよと、不遜ながらお伝えしたかっただけの話です。
今年の小学校には、令和生まれの子が入学するそうですね。保護者や先生は平成生まれか。個人的にはその件が感慨深いですが、どちら様もおめでとうございます。

ただいまお式の最中でしょうか。お天気に恵まれてよかったですね。




桜もいいけれど、菜の花の黄色もね。



