つまらないヤツの究極の朝食

朝食について書きます。思い付きのネタだけど、自分の性格が反映されているように感じたのが理由です。
現在の段取りと内容は次の通り。まず、使い古した小さいフライパンを温め、何の変哲もないソーセージを2本投入。続いてコーヒーメーカーで3杯分をセット。フライパンのソーセージをころころ転がしつつ、コーヒーメーカーがポコポコ歌うのを聞きながら、冷蔵庫からカット野菜と玉子1個を取り出し、サラダはテーブルへ。玉子はちゃかちゃかっと溶きます。
ずいぶん前、カット野菜を使っていると言ったら「洗わずに食べられるなんて」と顔をしかめた人がいたけれど、あるときテレビでカット野菜の工場を見たら、極めて神経質に衛生管理をされているのを知って、より気にならなくなりました。
ソーセージに良き焦げ目がついたら皿に移し、フライパンに少量の油を注いで溶き玉子を。毎回形が違ってしまうオムレツ風に仕上げます。
そしてパン。2個のバターロールをトースターへ。中央に切れ目を入れるようになったのは、わりと最近です。野菜とソーセージと玉子を挟んだら食べやすいかも? と思ったのがきっかけでした。
最後に、そうしたほうがバランスがよいと素人なりに考えた末、オレンジを一個トレーに載せてセット完成。以上が僕の通常の朝食です。もし毎朝出勤する生活なら、洗い物も出るここまでの手間はかけないでしょう。
さておき、この朝食が美味いかと言えば、決して不味くはないけれど、その後の活動を安定させるための、ただのルーティンに過ぎません。ルーティンのメリットは、一度決めれば従うだけ。余計なことを考えずに済むところです。
ただ、いつも同じなんておもしろみに欠けるんじゃないか。ってことは、オレってつまらないヤツなんじゃないか? そうした気づきは、ソーセージを焼いている最中、何度も頭を過っています。けれど変わらずに続けているのはなぜか。堅実? いや、芳しくない意味での保守性?
おそらくこの朝食には、元来の性格が反映されているに違いありません。けれど真実を探求する前にすべてを食べ尽くしてしまうのも、要するに毎朝のルーティンです。あるいは、朝っぱらから意味や意義など考えなくていい、僕にとっては究極のメニューなのかもしれません。

この町のどこからでも見えていたクレーンがついに撤去? お役目ご苦労様、なのかな。

競技そのものよりも

なぜかタイミングがフィットして、現在カナダで開催中のカーリング女子世界選手権の日本戦を観ています。無論、テレビ中継です。予選ラウンドは9勝3敗の3位。準決勝進出をかけたプレーオフに進みましたが、これを書いている時点では試合が始まっていません。言うまでもなく優勝に届いてほしい。でも、それ以上に興味を覚えたことに触れます。
件の選手権で戦っているのは、これまでのオリンピックでおなじみのロコ・ソラーレ。しかし、ミラノ・コルティナ2026に出場したのはフォルティウス。後者が最新の日本代表なら、そのまま世界選手権に出るんじゃないの? と疑問に感じますよね。その経緯、ちょっと探ってみたら、各大会の国内選考基準が異なるみたいです。
オリンピックに出られるのは、五輪代表決定戦の勝者。世界選手権は、1月末までのワールドカーリングチームランキングで国内最上位チームに出場権が与えられるそうです。それが異なったので、世界選手権にはロコ・ソラーレが出ていると。
加えてカーリングの不思議さは、チーム単位で日本代表を選考するところです。日本人最強集団を編成するなら、野球やサッカーのように、所属チームの垣根を超えた人材選びをすればよさそう。なのに、ことさらコミュニケーションが重要なカーリングでは、普段から行動を共にする者同士を優先するらしい。
だからなのかなと思いました。馴染みがあるからかもしれないし、今大会の成績が良いからかかもしれませんが、ロコ・ソラーレの試合は観ていておもしろいのです。どこがどうとは言い難く、極めて曖昧な表現しかできないけれど、どんな状況も楽しんでいそうな温かな気配が、チームメンバー全員から感じ取れるからだと思います。そういうのって、場合によっては結果を超えるんじゃないでしょうか。つまるところ僕が見たいのは、競技そのものよりも人ないしは人々なんだと、改めて感じ入った次第です。
でね、現在のチームの雰囲気をぜひ体感していただきたいのですが、そのためには決勝ラウンドに勝ち残ってもらわないとなりません。そこが結果ありきの競技の厄介なところなんですよね。

雨でグラウンド使用不可。急きょ室内練習場へ。阿呆なほどの野球好きよね。

それ自体がなくなったことにはならない、としても

小さい頃、というのは10歳前後。足元に落ちている石ころを眺めて、こんなことを考えました。これを遠くに投げて、他の石ころたちと混ざって見分けがつかなくなっても、その石ころ自体がなくなったことにはならないと。
哲学的なようで、その実「だから何だ?」という話ですが、僕は今でも何かを失いかけているとき、その降って湧いた啓示めいた考えを思い出します。つい最近もありました。
ショッピングモールで予定外に買った靴下の代金を支払う場面。ご機嫌な笑顔を浮かべる店員さんに「駐車場のご利用はありませんか?」と聞かれ、ふむふむと上着の右ポケットに手を入れたら、あるはずの駐車券がなかった。ならば左ポケット? ズボンだっけ? とあたふたし始めた僕が不憫に見えたのでしょう。表情を困惑の共感に切り替えた店員さんが、「他のお買い物で合算できますよ」と切り出してくれたので、それ以上の醜態を晒すことなくそこから去ることができました。
その刹那、トナオ10歳がよみがえりました。紛失したのは、おそらくただの不手際。けれど理由が何であれ、僕の手から離れた駐車券がこの世から消えてなくなることはない。そう思ったら、その事実が尊く感じられたのです。それに満足して一切探しませんでした。なぜなら、係の人に話せば駐車券の再発行ができるはずと高を括れるだけの、あれから50年で身に着けた知識と経験も具えていたから。
その数日後に別件が発生しました。遅めの時間に帰宅し、すぐに可燃ごみをまとめ、集積所に向かうべく部屋を出ようとしたら、鍵がない? わずか数分の作業で行方不明になるなんてあり得るのか? 仮に失くしたと判断しても、こんな時間じゃ大家さんに相談できないし、昨年あたりも自宅に居ながら鍵を見失ったから、二度目の申告も気が引ける。さて、どうしよう。
ひとまず深呼吸。まさかと思ってごみ袋を持ち上げたら、底のほうに可燃と分類すべき金属の塊が……。
他と混ざって見分けがつかなくなっても、なくなったことにはならない。そんな啓示を受けた10歳の自分に伝えたいことがあります。君の足元にあった石ころが、君にとってかけがえのないものだったら、そもそも遠くに投げたりしないだろう。それよりも重要なのは、この先の君は自覚が乏しいまま、いろんなものを失う人生を歩む。だからくれぐれも注意せよ。という訓示を与えても聞く耳を持ってくれるか、今の僕にも自信がありません。

春キャベツ半玉88円(税別)。安いんだろうけど、欲しかったのは4分の1サイズだった。

 

おだやかな春分の日に

入退院についてお伝えして以降、母親に関する話題は高齢者のリアルが過ぎるんじゃないかと臆したり、一方で伝えたからにはその後も報告するべきかもと思ったり、あれこれ逡巡しております。けれどおかげさまで経過はよいし、身内ながらおもしろい発見があるので、今日は国民の祝日に合わせて解放することにします。
退院に際し、自分と弟でそれぞれ週に一度、母親を訪ねようと相談。確定したルーティンの中で、息子になって64年目で初めてやったことがありました。初週は母親の家で冷凍保存用に白米を炊き、翌週は自宅で冷凍した白米を届けるとか。母親にすれば、「何にもできなかった長男がご飯を炊くなんて!」と呆れたかもしれません。しかしそれは口にせず、「あんたのお米、美味しかったよ」と無邪気に言うのです。照れだけではない奇妙な感情が先に立って、何も言い返せませんでした。
2週目からは手土産持参。すぐに食べられる晩飯の用意を考えたのですが、今の母親が何を好むかわからず、食品売り場で右往左往。結局、生魚をあまり使っていない寿司と、小ぶりの和菓子を2週連続で買いました。それにも手を合わせてよろこぶので、リアクションに困りましたけれど。
じゃ、さっそく和菓子を食べよう。お茶を淹れると動き始めたら、「その前に、お父さんにあげて」と制止されました。「私だけもらったらお父さんが拗ねるから」と、まずは仏壇に供えろと。きっと母親は、そうした日常に溶け込んでいる宗教的習慣を疑うことなく守ってきたのでしょう。何十年も変わらぬ表情で写真に納まる父親と目を合わせたら、「なぜ知らなかった?」と問い質されたような気持ちになりました。何かもう、感情が多忙になりますね。
「お彼岸だからか」と言われてハッとなりました。一昨日の和菓子は、きな粉とごまのおはぎ。春はぼたもちと呼ばれることを承知したような、時候的な気遣いをしたつもりなどなく、自分のあんこ好きを反映したチョイスだったけれど、それすら母親は見透かすのかもしれません。だから、また黙りました。しかし「さっきまで金曜日が祝日なんて気づかなかった」と一人笑っていたので、よくわからなくなります。
まあ、いいか。すべては成すがまま、おだやかな春分の日になることだけ祈っていれば。

世間が桜の開花にうるさいので、再びハクモクレンを。こっちも素敵に咲いているのにね。

権利とは別のところにある本物について

少し前、「フェンダーがストラトキャスターの著作権保護に関する重要判決を獲得」したというニュースを目にして、ギター好きの心がざわつきました。
ギター好きではない方にご説明すると、ストラトキャスターは、アメリカ発のフェンダー社が1954年からつくり続けているエレキギターです。独特なボディ形状は、エレキギターを代表するデザインとして歴史的に認知されてきました。
さておき「ストラトキャスターの著作権保護獲得」で重要なのは、この判決が確定すると、少なくともEU圏内ではストラトキャスターを真似たギターの生産・販売ができなくなること。具体的には、コピーを市場に送り出していた中国企業への対抗策だそうです。
ある解説によると、大量生産される実用品のデザインは、25年の期間を有する意匠権で保護され、著作権は著作者の死後70年まで保護されるのが一般的らしいんですね。対してストラトキャスターのデザインは、いずれの保護期間からも抜けているので、ドイツの裁判所の判断が全世界にどれほど波及するかは今のところ不明だとか。ふむ。
この件に関して頭を駆け巡ったのは、対照的な二つの考えでした。ひとつは、もちろん権利は大事ということ。必死で生み出したオリジナルをコピーして商売されたらたまったもんじゃないですよね。
もうひとつは、「今さら?」という気分的なものです。実は、僕が初めて買ったエレキギターも、オリジナルより安価な国産メーカーの“ストラト・モデル”でした。たぶん今でもそういう呼び方が通例のはず。でもって初めてのエレキだったから、ある程度の満足が得られたわけです。
しかし、どこまで行っても本物じゃないことは自分自身がいちばんわかっている。そこに後ろめたさのようなものを感じたなら、本物をつかまえればいい。そうして僕は後にフェンダーのストラトキャスターを手に入れました。少なくとも僕らが若い頃にはそういうステップがあって、だからこそ「いつか必ず!」といった憧れを抱くことができたのです。
だから本物は何にも動じないでいてほしい。様々な権利の保護期間が過ぎているのだからなおさらじゃないかと。
いやまぁ、嘘も重ねれば実になる例はあるだろうから、適切な線引きは不可欠なのでしょう。いずれにしてもこの件は、ギター好きとして複雑な思いで受け止めています。ただ、僕らが惹かれているのは、裁判で争う権利とは別のところにある本物のプライドだと、それだけは言っておきたいです。これもおそらく裁判では無効の気分的な発言ですが。

エレベーターのカゴの、外側の天井。ここまで見せなくてもいいかなあと思って。

国民的

人気グループと呼べばいいのかな。国民的と修飾するべきか。
『嵐』の話です。彼らが活動終了に向けたコンサートツアーを始めたことくらいは僕でも知っていて、となればかつてのように北海道でもあるんじゃないかと思ったら、その皮切りとなる旧称の札幌ドーム公演が先週末の3日間で行われたらしいですね。開催状況に関して特段のニュースがなかったようなので、無事に終わったのでしょう。けれど今回もまた、万事無事とは言い切れない人がいたんじゃないでしょうか。
あれは2019年の夏前だったかな。3泊4日の北海道取材。取材日が近くなり担当者から出発の集合場所を知らされ、僕は混迷の縁に立たされることになります。
成田ですよ。羽田の聞き間違いと思って、3回くらい問い質したんじゃなかったかな。国内移動で成田空港利用など前代未聞。なおかつ札幌市内の宿も取れず、行かないとわからない場所に泊るという。
その理由は、『嵐』の札幌ライブ日程と重なったせい。しかし、にわかには信じられませんでした。だって、ライブは札幌でしょ。なのに羽田からのチケットが取れないなんてあり得ないだろうと。
でも、実際にあり得た。後々、いわゆる熱狂的な推し活をされている人に聞いたら、チケットが取れるならどの会場でも向かうと、叱られるように言われました。
いずれにせよ、そのとき初めて成田エクスプレスに乗りました。さらには、エアチケットがLCCしか取れないということで、成田空港内でかなり遠い場所にあるカウンターまで歩きました。その最中は愚痴と感嘆のラリーです。「何だよ嵐」と「凄いな嵐」。勝ったのは後者ですね。国民的って、相応の迷惑を被る側すら黙らせる力があるという事実をまざまざと体験すれば、自分たちの認識の甘さを悔いるしかなくなるのだから。さらには、当時の憤りすら思い出話にできるのも国民的に宿る神通力のおかげかもしれません。
今回はどうですか。さっきネットのニュースを見たら、4月末の福岡公園に合わせて、JR九州が停車した特急列車の車内で一夜を過ごせる有料プランを発表したそうです。僕らとしては、その期間そっち方面の取材は避けるべきなのでしょう。まさに神ですね。迂闊に触れば、ですもんね。

何度も掘り返されるベランダ直下の道路。工事の人たちに罪はないけれど、どうしたもんだか。

掃除機に吸い込んでもらうことを勧めます。

日曜日のWBC日本戦。ああいう結果になることは予想の範疇だったというか、より正直に言えば覚悟していました。そもそもトーナメントは、勝者と敗者が2分の1の確率で出現する仕組です。ゆえに応援するチームが負の方向に飲み込まれる可能性は低くない。2分の1って、相当なものですよね。8の4ならまだしも、1万なら5千ですから。
そんな数字遊び以前に、日本の苦戦は明らかでした。大谷選手を始めとするジャパンのメンバーが証明したように、メジャーリーガーは本当に凄いのです。大谷選手につられてメジャーリーグの試合を観るようになってから、たとえば試合のダイジェスト映像ではカットされてしまう守備や走塁といった細かいプレーの一つひとつに溜息をつくようになりました。
類稀な身体能力を備えた上で、高度な技術を身に着ける努力を惜しまない者だけが生き残る世界。そんなトッププレーヤーを選りすぐって国別でチームを組めば、戦いが熾烈になるのは必至。そんな本気の状況を生み出したのが、前回大会で優勝した日本ないしは大谷選手だった。僕はそう思っています。
それを誇りとするか、皮肉ととるか。僕は前者に一票です。だから結果を受け止め、中継が終わった後、翌日でもよかった部屋の掃除をしました。心を落ち着かせるのにもっとも適した作業と思って。
一方、嫌なことになりそうと心配しているのが、戦犯探しなどの誹謗中傷合戦。目につく範囲でも、すでに始まっている様子です。もちろん、世間の耳目が集まる事柄には一定の評価が不可欠。ただし賛辞も批判も、他者に聞かせるなら事実に基づかなければならない。それが最低限のルールです。
でも、現代は破り放題。というより無法地帯。自分も同類ながら、知恵を持った人間の浅はかさが露呈する現状に触れると、それこそ皮肉と残念な気持ちになります。今はオリンピックでも各国に誹謗中傷対策チームがあるんですよね。僕はついこの前まで知らなくて、自分の呑気さに打ちのめされたばかりです。
時々思うのは、グッド・ルーザーという英語にふさわしい日本語訳がないことです。直訳すれば「良き敗者」ですが、傷んだ者の肩にそっと手を置くような優しい配慮の意味合いまで含まれているんじゃないでしょうか。けれど誹謗中傷が全世界で起きているなら、どの言語のグッド・ルーザー的な言葉も水泡に帰しているのかもしれません。
それぞれに一言あるのはわかります。しかし本気の場を経験していないなら、そんなものは飲んで吐き出して忘れるか、掃除機に吸い込んでもらうことを勧めます。

電信柱上方のこのスペース、くちばしに小枝をはさんでくるヤツを毎年目撃するけれど、営巣の成功例はまだ見ていません。

「オジサン」敵視

年長者に対して何かとオジサン呼ばわりする男性がいます。年功序列を気にしないフランクな性格なのかもしれません。それはそれでかまわないけれど、僕も何度かそう呼ばれたので、あるときたずねてみたのです。なぜオジサンを連発するのかと。問われるのが想定外だったのか、うろたえた分だけ遅れてこう返してきました。
「僕もオジサンだから……」
何度かお目にかかっただけの、特に親しくはない間柄。聞くところによると、40代前半で独身。パートナー探しに奮闘中だとか。最近になりジムに通い始めた件は、本人が申告してくれました。「ジム、行ってるでしょ?」と聞かれたので、行ってないと答えたら「ウソでしょ、オジサン!」と、そのときもそんな感じ。
彼の感覚がわからなくもありません。おそらく「オジサン」を敵視し始める年齢に差し掛かったんじゃないでしょうか。一方で、狼狽を隠せず「僕も」と答えたのは、彼自身に「オジサン」枠に入った自覚ないしは不安があるからなのでしょう。けれど自分は違うと主張するため、年長者を見れば「オジサン」を連呼するようになった。そんなところでしょうか。
いわゆる老化は不可避。たとえば野球をやるたび、30代や40代の躍動感がうらやましくなります。でも、それがすでに手に入らないなら、皆に仲間と認めてもらえる動きを60代なりに考えるしかありません。かつて経験し得なかった抗い方に工夫を凝らしながら。
検索すれば、すぐに「オジサン」の定義が出てくるでしょう。僕にも自分なりの定義があって、そうはなりたくないともがいている点で、僕こそがもっとも「オジサン」を敵視しているのかもしれません。
ただ、歳を重ねるに連れ、諦めるべき要素を上手に諦められる人は、たぶん他人から「オジサン」の総称で呼ばれないと思います。僕が彼にそう言わせてしまうのは、あれこれ下手な気配を感じさせたからかな。だとしたら、まだまだいろいろ精進せねばなりませんね。言う理由を問い質すより、言わせない格を備えたほうが、大人としてカッコいいもんな。

午後5時からの練習は照明付き。それにしても、日が長くなりましたね。

じゃないって言いたい人

それとなく異変を感じたのは、先週の月曜日の夜。ベッドに入る直前になって鼻が詰まりました。ふんふんふんと強めの鼻呼吸を繰り返し、酒の飲み過ぎかなあと鼻をかんでみたり。それでも眠気が勝るくらいならと、特に気にせず眠りました。
翌朝はどうだったろう。そこはよく覚えていませんが、火曜日の夜も寝しなに鼻が詰まったんじゃないかな。で、ふんふんふんとし、鼻をかんで寝たのは前夜と同じ。けれど、ウトウトし始めたら鼻息の荒さで覚醒しました。いびきとは違う感じ。文字にすればピ~フュ~。目覚めたのは鼻息の音ではなく、息苦しさのせいだったかもしれません。
「ようこそ、こちら側へ」
水曜日の晩、近所の飲み屋で鼻の具合について話したら、そう言われました。未体験ながらそちら側の苦しみを知らないわけじゃないので、決して行きたい場所ではなかったのに……。
「じゃないって言いたい人、多いですよね」
これも飲み屋での、たぶん嫌味。僕はこれまで、「ですか?」とたずねられるたび「じゃない」と即答してきました。だって本当に、それら典型的な症状を実感したことがなかったから。でも、ニュースなどで「ピークです」と報じられたり、患っている方々に「今日は特に辛い」と聞かされると、そう言えば目が痒いような気がしなくもない日がありました。けれど長引かない。だから錯覚なんだとすぐに忘れる。
体内蓄積が限界を超えると発症するコップ理論は知っています。それが真実なら、やがて僕にも限界突破が訪れるかもしれない。しかしコップ理論は古い考えで、免疫とアレルギー抗体のバランスが崩れると発症するシーソー理論が新しい考えであることも知っています。であれば、バランスが取れている限りそちら側に呼ばれることはないと高をくくっていたのは確かです。
ここまで書いても、僕は決定的なワードの使用を拒んでいます。けれど、鼻はいまだに時折グシュグシュ。風邪などではないのは、体調自体に問題がないことで明らか。噂に聞く集中力の低下も倦怠感もなし。
わかっています。たぶん、そうなのでしょう。でも、もう少し様子を見てから判断を下します。ニュースが伝えるピークが過ぎれば、きっと忘れてしまえるだろうし。

うんと昔に利用していた駅の北口。口を挟める権利はないけれど、思い出も何もかもが、ね。

時速100マイルの正論

触れるべきではないと知りながら、感心しきってしまったので触れることにしました。
金曜日の午前中に出会った『大谷翔平が語るWBCベネズエラ戦と投球調整』というタイトルの動画、よかったら観てください。この人が持つ強さに潜む怖さが伝わってくるはずです。
観てくださいと言ったので、観ていただければ一目瞭然ですが、開催中のWBCで移動したマイアミでの記者会見映像です。
難しい種類の対応と思うのです。記者との一問一答は、場合によっては失言を拾われかねないから。しかし大谷さんは、彼のパフォーマンスそのままに、あらゆる芯の外し方を心得ていました。
代表的だったのは、異なる言語でたずねられた、対戦チームの国柄や人柄に関する質問でした。おそらく記者は、アジア圏はこう、中南米ならこうと、個々の違いを詳細に話してほしかったのでしょう。大谷さんの応じ方は、おおむねこんな感じでした。
「特色に違いはあっても、野球に関してはどのチームも同じルールで戦っているので、大きな違いはないと思っている。また、野球が僕らの言語だから、それをもとにコミュニケーションがとれたなら、この大会は素晴らしいものになる」
口にしないんです。あの国はこうとか、この人はどうとかなんて。この類の発言が意図せぬ扱われ方をされる危険性を理解しているからだろうけれど、その何段も高い次元で、「野球が僕らの言語」と軽やかに言い放つのです。
間違いなく大谷さんなりの正論なんですよね。けれど、そんなの普通はおもしろくありません。他の選手なら、「アイツいつも同じように答えるから聞かなくていいや」となりそうです。けれど大谷さんのそれは、誰も打ち返せない時速100マイルの正論。呆然と見送ることしかできなくても、それでも見たいものなのでしょう。
記者会見映像を観るとき、僕は自然と質問者の視点に立ちます。いい聞き方するなあとか、それをたずねてもなあとか、聞き手の資質を意地悪気味に探りながら。けれど件の会見は、記者が気の毒になりました。それぞれ質問を練ってきただろうに、大谷さんの前で完全に飲まれていたのが手に取るようにわかったからです。彼は顔を上げ、質問者に目を向け、淀みなく言葉を発するんですね。そりゃもう圧倒的ですよね。
そこで湧く疑問は、どうしたらそんな人物になれるのか? 親目線でも聞きたいかもしれません。どうしたらそんな子に育つのか? とは言えこの類は、記者会見で聞くべき質問リストから除外確定です。

散った梅とこれから咲く桜の間をつなぐのが白木蓮なのかしら。