本物でも偽者でもなく

「それの何が?」でした。先日報じられた、日本の対米投融資の第1弾に人工ダイヤモンド事業が挙げられたニュース。で、「人工ダイヤの何がいいの?」と思ったわけですが、後々調べてみると、浅はかな僕が頭に描いた宝飾系ではなく、工業系での有効活用が目的だったようです。不純物の含有率によって半導体もつくれるそうな。
だからちゃんと調べてから考えろって話なのだけど、それでもニュースを目にしてからしばらくの間は、人工ダイヤの何がいいんだ? という僕の中の曇りはなかなか晴れませんでした。
自分でダイヤを身につける意欲は、これまでもこれからも湧かないでしょう。ただ、何かの間違いで手に入れるとしたら、そりゃやっぱり天然だけが本物。人工や合成などあり得ないという、うがった見方をするに違いありません。
そんなさもしい自分を引っ張りださないためにも、高級高価な類と距離を置けるオレは賢い。そんな自慢に酔いかけて、ハッとしました。あれはどうなんだ? それも人の手によって本物らしい加工がされていたんじゃなかったか?
端折って説明します。3年前の立春に出会い、分不相応な価格を含め、今も一人悦に入ることができるギター。その木材の一部に、数十年の経年変化でしか生み出されない音を出す特殊な化学処理が施されています。それも科学による名器復元の試みなら、人工ダイヤを嗤う資格などないのではないか?
勝手に立論して反駁しますけれど、そのギターの音色を初めて耳にしたとき、とにかく魅入られてしまったのです。化学処理の件は後に知り、今はこんな技術があるんだと、いたく感心しました。
けれど、数十年の経年変化をたたえたギターこそが本物と信じて疑わない人にすれば、僕のギターは紛い物なのかもしれません。ただ、仮に指摘されても、僕はさして気にしないでしょう。なぜなら、負け惜しみではなく、わずか3年ながらともに過ごしているそのギターとは、本物でも偽者でもない真実の時間が積み重なっているから。
要するに、誰にとって良いか、ですよね。だから本日の教訓は、自分の知識や経験だけで「それの何が?」と揶揄するのは、心の貧しさを晒すようなもの、ということでしょうか。アメリカでの結婚指輪は、半数以上が人工ダイヤらしいですよ。当人同士が幸せなら、それに勝る輝きはないって話です。

数日前の空。冬とは異なる気配が漂い始めたような。

自分の話など世界でいちばんつまらない

会話と対話。「スタンスとして重きを置くべきは、より良き聞き手になること」は昨日のテーマでした。その一方、麗しい会話や対話には、より良き聞き手と対になる、より良き話し手が必要です。が、僕はより良き話し手になるための術を知りません。困ったもんです。
より良き聞き手になるのが職業的な使命だったから、逆方面の技を磨こうとしなかった。などと言えば、さぞ上手に聞けるんだろうと思われそうですが、そこはツッコまないでください。今も切磋琢磨と試行錯誤の最中なので。
ただしインタビュー取材では、より良く話してもらうための質問を投じなければなりません。そのタイミングは話し手になるじゃないかと、これまたツッコまれそうですが、質問は別物。相手の言葉を引き出すための呼び水に過ぎないのです。それゆえ、可能な限り簡潔な文言を用意しなければならない。そのスキルを獲得するのが、インタビューでもっとも難しいんじゃないでしょうか。
そんな習慣を身につけてしまったから、より良き話し手になることができなくなった。そういう分析も成り立ちそうだけど、すぐにでも書きたい衝動に駆られる興味深い話を耳にしているうち、こう思うようになったところがあります。自分の話など世界でいちばんつまらないと。何よりも、他者の好奇心をくすぐるような逸話や成果を持ち得ていない不覚が、自分発信の扉を塞いでいるのかもしれません。
発想や記憶を発言に置き換える瞬発力の鈍さも実感しています。取材であれば、聞くべき質問の準備ができるし、想定外の返答を受け入れる余裕も持てる。しかし、話題が方々に転がる会話ないしは対話では、持論のようなものを上手に語れません。1回持ち帰って文章に改められたら、もっと気の利いたことが伝えられるのにと、常に後悔しきり。
そんなわけで、自分がより良い話し手になれない理由を書き出してみました。それらを改善できたら、あるいは僕が話を聞かれる側になったりするのだろうか。いやいや、人には得手不得手があるので、ここまできたら得意を伸ばし続けたほうが無難でしょう。
いずれにしても、「アイツ、話してもつまらない」と嫌われないよう、経験値を盾により良き聞き手を意識していきます。口が滑るような呼び水を撒くので、思う存分話してくださいね。

何にも動じず、のんびりしてるんですよね。彼らにも地元民の意識があるのかなと思って。

相槌は無音で

会話は、気軽なお喋り。言葉を交わし合った果てに具体的な到達点を見つけなくてもよく、他愛なき情報の交換をしながら、ほどよい関係性を保つのに適しているもの。
対話は、相互理解を図ったり、自分にはなかった視点の発見など、明確な目的を持って行う話し合い。互いを尊重する姿勢が維持されると、本音の部分が浮き彫りになってくるもの。そんなわけで、日本語では一字違いなれど、似て非なる意味になります。
唐突ですが、気楽な会話でも、相手をよく知ることができる対話のようなコミュニケーションをしたいと思っている方がいるなら、僕の経験談からよさげな方法をお伝えします。
会話であれ対話であれ言葉のキャッチボールになりますが、スタンスとして重きを置くべきは、より良き聞き手になることだと思います。これに賛同されるなら、相手が話している間は、こちらから一切声を出さないよう心掛けてみてください。
「声に出して相槌を打たなければ、聞いていないように思われるんじゃないか?」
そう、そこが不安になりますよね。だから反射的に「なるほど」とか「ほお」といった感嘆詞の類を相手の発言に差し込みたくなる。それが礼儀と思ったりもするから。
以前の僕もそうでした。ところが大革命に晒されたのです。きっかけは映像の仕事。インタビューが好きなので、収録でも慣れた手法で発声相槌をしていたら、ディレクターに諭されました。
映像では、話し手をとらえた場面で他者の声が被ると、集中して見せたい意図がぶれるんだそうです。なおかつ、不要な音声を切る編集の手間も増える。だから相手が話しているときは、黙って相槌を打ってくれと。
最初は怖かったです。話に興味がないように取られるんじゃないかと思って。けれど黙っていても、「一言一句逃しませんよ」という意識を醸し出せば、相手は話し続けてくれるものなんですよね。
それは、相手から目を逸らさないようなフィジカルな体じゃなくてもいいみたいです。その一件以降、メモを取り続けるインタビュー中も無音相槌を意識するようになりましたが、ノートに視線を落としたまま自分の言葉にペンを走らせている様子を見ると、相手は「ちゃんと聞いてくれてるんだ」と安心するらしいのです。
つまるところ話す側は、聞いてくれるから喋る。そしてついには、うっかり本音を漏らしたりする。だから誰かを深く知りたいなら、ひたすら聞くのが大事。できれば相槌は無音で。一度試してみてください。いつもより達成感のある雑談ができるかもしれません。

やっぱり孤高の気配が強いと思いませんか?

ブランブルケイメロミスの日

違う話を思いついていたのに、日付ネタに引っ掛かりました。
オーストラリア政府は2019年2月18日、グレートバリアルーフ北端の固有種であるブランブルケイメロミスの絶滅を正式に宣言。長期調査による絶滅理由は、海面水位の上昇によるその小さなネズミの生活圏喪失、または直接的な溺死。人為的気候変動によって絶滅した最初の哺乳類とされたそうです。
さておき、昨年の最後に買った本のタイトルは『アフター・サピエンス』。人間の文明活動など及びもしない自然の理で環境が厳しくなっていく地球で、人類という種が生き残る可能性が紹介されている一冊です。
人類がまず始めるべきは、エネルギーを大量に消費する脳の小型化。人類が他の生物より大きな脳を持ったのは、生き抜く上で不可欠だった文明を築くのが目的だったと信じたいですよね。ところが実は性淘汰。つまり、蓄えた知識を喋ることで異性の注目を集め、優れた子孫を獲得するために脳を大きくした、という説があるらしいのです。これ、思い当たる節がなくもない。
脳を小さくすれば、食料自体も確保の方法も変わってくるし、環境変化に対応できる様々な形態の新人類へと生まれ変われるかもしれない。その考察例として、マントヒヒみたいな草食人間や、大きな翼を持った飛行人間。海洋進出を果たすクジラ人間などがイラストで示されます。正直なところ、どれもなりたいスタイルではないけれど。
それでも生物の命題である種の保存を行うなら、知能の放棄が絶対条件。文明の構築から手を引き、自然環境に身を委ねない限り人類に未来はないと。どう思います? できそうにないですよね。
そこで、ブランブルケイメロミス。人間のような知能を持たないであろう彼らは、生活圏が水浸しになっていく理由を知らないまま、静かに種の歴史を閉じたんじゃないでしょうか。それを人間は、まるで神様みたいに「人為的気候変動によって絶滅した最初の哺乳類」と定めた。そんな記述を読み返せる脳を捨てれば、ブランブルケイメロミスは今も平和に暮らしていたんじゃないだろうか。そんなことを思いました。
自虐的な締めになりますが、地球上でこれまでに誕生した生物種の絶滅確率は99%以上だそうです。

仙台堀川という名前に惹かれて撮りました。両岸は桜なのかな。

「別にまったく同じじゃなくていい」

おおむね文化の違いについて話したいのですが、まずは野球の話題から。
2月も中旬となり、メジャーリーグ各球団がキャンプイン。これが始まると、親切なYouTubeは速報動画を流してくれます。
その中に、ドジャースの山本由伸投手に関するものがありました。トレーナーの指導のもと、投手グループの約20名がウォーミングアップをする映像。個性が強い選手たちでも、全員そろって同じ動きをするのは、開始早々のキャンプならではかもしれません。
フォーカスされた山本投手はというと、全体に合わせつつも、ほぼ流していました。その場の彼にとって優先されたのは、新加入した大物投手との会話だったようです。コミュニケ―ションは大事。でも、これが日本だったら「お前ら喋ってないでちゃんとやれ」と叱れるんじゃないでしょうか。
その映像を見ながら、こんなことを思い出しました。初の英国取材で、シルバーストーンという世界的に有名なサーキットへ。そこでどうしても混ざりたかったのが、小さなレーシングカーの体験走行会。最初に説明されたのが、一人乗りマシンの乗り方。インストラクターが手本を示してくれたあと、手から足の運びまで同じ手順を真似て乗り込んだら、にべもなく「別にまったく同じじゃなくていい」と言われたのです。
インストラクターにすれば、人もクルマも傷つかなければ何でもよかったのでしょう。けれど僕は何も考えず、ただ同じであるべきと思い込んだ。本当に些細な場面だったけれど、目的に向かう指導の、洋の東西を実感した瞬間でした。
メジャーリーグに戻りますが、彼の地のコーチやトレーナーは、選手から聞いてくるまで具体的な指導をしないそうです。理由は、自分たちが先行すると強制になりかねないから。他人に従うのではなく、自分に従う主体性が大事ということなのでしょう。
そういうの、いいなあと感心します。が、いかに主体性を尊重しようと個人が結果を出さなければ排除される。そうした社会が土台になっている事実を見落としちゃいけないですね。そんな清々しいまでの残酷な世界で、山本投手は楽しそうに喋っていました。もちろん、約12分の動画で誰かに叱られる場面はなく、変な心配をする自分の日本人らしさだけが浮かび上がったという、ただの可笑しい話です。

紅もよく咲いている。

歌うのは好きだけど

「カラオケで何歌いますか?」
そうたずねられた瞬間、焼き肉コンロの前で冷や汗が噴き出そうになりました。カラオケ、何だかとっても苦手なのです。
そんな質問に迫られたのは、新たな仕事に就くため、急きょ東北方面に引っ越すことになった仲間を送る会。メンバーは僕を含め5名。かつ、僕以外は全員30代。若い連中なら二次会の既定路線はカラオケだったか……。それを忘れていた自分を呪いたくなりました。
世代差があるにせよ、カラオケで何を歌うかたずねられて、皆あの歌この曲と即答できるものなんですかね。仮にオハコがあったとしても、僕は答えられません。自分で発表するくらいだからさぞ上手なんだろうと期待されたくないし、実際に歌って下手くそだったらマイクのコードで首をくくりたくもなります。
わかっているんです。酔った勢いで騒ぐのが目的だから、歌のスキルなど関係ないことくらい。けれど、どうせ歌うならというささやかな意欲は抑えきれないし、その上で場の空気を乱さない選曲にも配慮しなければならない。そうしてあれこれ気を回した挙句、ついには苦しい気分に陥る。それが僕にとってのカラオケ現場なのです。
そんなこんなで、昨年はたぶん一度も行っていません。そうして避けてきたにもかかわらず、迂闊だったその晩の結末が、「調子に乗って行くんじゃなかった」だったらよかったかな。
冒頭の質問をはぐらかし、新たな注文をするなどして話題の方向転換を図った末に、カラオケの4文字はコンロの煙とともに店の外へ。言い出した本人が酷く酔っ払ったのが最終的な回避理由でしたが、いい気なもんですね。記憶がないだろうから、また同じ質問をされるのかな。
少し前の出来事を本日持ち出したのは、自宅でYouTubeに合わせて、ビリー・ジョエルの『Just The Way You Are』を口ずさんでみたことに端を発しています。原曲キーでも案外気持ちよく歌えたので、ならばカラオケで披露か? なんてわずかでも考えた自分が恥ずかしなりました。英語詞を得意げに歌い上げる大人になんか、決してなりたくないのに。
この曲の邦題は『素顔のままで』。素顔を晒すのは自宅だけで十分。歌うのは好きだけど、カラオケは苦手という人に共感してもらいたくて、こんな話になりました。

梅とか気になる頃合いです。すぐに暑くならないようにと祈ったりもします。

電車の座り方

先月末、仮称A地点に定期的に通うようになり、クルマではなく電車を選んだ件をお伝えしました。実はその時点から、小さく戸惑っていたのが電車の座り方です。
いや、健康的な座り方ではなく、それ以前の、座るか座らないか問題。いわゆる在来線を利用する際、ガラ空きでもない限りは基本的に座りません。理由はいくつかあります。まずは、座るべき方に座っていただくのが筋だと思っているから。それから、椅子取りゲームの断固拒否。さらに付け加えると、座った目の前に立った方を観察して、譲るべきか否か悩むのが面倒臭いというのもあります。
以上に鑑みると、とにかく座らなければ無駄なストレスを負う必要がないという結論に達するわけです。ただし例外は、片道90分以上で、1路線の乗車時間が30分を越える場合。これは考えどころです。往復の疲労を考慮すれば、そのくらいは基本ルールを緩めてもいいはず。なので、実質40分乗り続ける路線において、少なくとも半分以上の時間は座れる策を講じました。
比較的空いている先頭または最後尾の車両に乗る。意気地ない策のような気もするけれど、何にせよ椅子取りゲームは嫌だし、これだけ空席があるならむしろ座ったほうが自然という状況に身を置きたいんですよね。そのためにホームの端まで歩くのもカッコいいとは言えないけれど。
しかしこの策、効果的です。いまだ自分が求める座り方ができなかったケースに遭遇していません。おかげでゆっくり本が読めるし、ウトウトできるし、疲労軽減にも役立っています。
ただ、座れば座ったで、ざわつくことが生じます。体格への意識を喪失したまま自分の居場所を死守する人もいれば、この前などはかかってきた電話に応じた人もいました。席を離れないんですね。電車の椅子って、そんなに貴重なのかな。
そこで思い出したのです。パーソナルスペースを犯される不快感を解消するため、電車利用を避けた過去の自分を。まぁ何にせよ、この社会は大なり小なり自分の思った通りにはならないものです。その縮図を電車の中で追体験しているといった感じでしょうか。
そうした公共交通機関でそれとなく恐れているのは、いつか誰かに席を譲られる日が来ること。素直に従えるかな。他者との距離感が難しい環境下で、そんな日が来ない自分でいられたらいいけれど、どうなんだろう。

そんなわけで、名もなき駅のホーム端っこ写真を撮るようになりました。

小豆が好きだ!

ブームを超えて定着した感のあるクラフトビール。聞いたところによると、独自のビール開発を行う小規模ブルワリーは、これまでになかった素材を取り込んで新しいテイストを発見するのに意欲的なんだそうな。とは言え、ハンバーガービールをつくりたいがため、樽にハンバーガーそのものを入れちゃうというエピソードには呆れました。実際にハンバーガービールは完成したんだろうか?
そんなクラフトビールに小豆入りがあると教えられた刹那、一も二もなく飲んでみました。赤みがかっていて、香りも柔らかで、口に含んだ途端ほっとした気分になって、これは紛うことなき小豆だわと感動したのです。甘味は練乳によるもの。樽に小豆を入れたかどうかは確かめませんでしたが、とにかく小豆の風味がしっかり感じられる一品でした。
そこで久しぶりに、「やっぱりオレ小豆が好きだ!」と叫びたくなったのです。小豆の何がいいかというと、そこはあんことニアリーイコールですが、粒のままの小豆が見え隠れする赤飯も好物なんですよね。ゆえに必ずしも甘さではなく、小豆自体に特別な魅力を感じているみたいです。
実のところ、小豆そのものに強い味は感じません。ただし、加熱すると独特の甘い香りが立つので、菓子との相性がいいらしいんですね。一方で渋みも出るので、塩味のある料理とも合うという。その何とでも仲良しになれる特性は、紀元前1世紀の中国人が気づいていたし、日本人も奈良時代の文献に小豆記述を残していたそうです。
それから、熱を加えるとほくほくした食感になるんだとか。それですね。僕はあのほくほくに、他では得難い安堵を覚えるのでしょう。そんな結論では小豆が好きな理由解明に届かないけれど、あとはすべて太古から刻まれ続けた日本人のDNAのせいにします。
それほどの小豆好きながら、特に砂糖を大量に使うあんこはわりと控えています。なので時々、タッパーいっぱいに詰まったあんこを独り占めする状況を想像してみるんですね。それだけでも脳内に幸福ホルモンが湧き出る気がするから。
そう言えばバレンタインデー。チョコではなくあんこをリクエストするのは何様って感じですから、自分で買ってくることにします。そう考えた途端、僕の脳ではセロトニンやドーパミンの分泌が始まるのでしょう。安上がりな気もするけれど。

買ってみた! サイズ統一の小ぶりが愛おしい、大福とおはぎ。

間違ったらごめんなさい

2008年2月13日は、当時のオーストラリア首相のケビン・ラッド氏が、アボリジニと盗まれた世代に対して、政府として初めて公式に謝罪した日なんだそうです。
難しい話題に触れた自覚はあります。アボリジニとは原住民を意味する英語、かつ先住民を侮辱する名称であるだけでなく、法律などによって隔離され、様々な困難を強いられた先住民の地を引く子供たちを盗まれた世代と呼ぶからです。
この件に関して、大したことを語れもしない僕が関心を寄せたのは、12歳の自分がオーストラリア、正確に言えばその大陸に構える世界最大級の一枚岩に惹かれた記憶に端を発しています。
だいぶ前にも触れましたが、小学6年生のとき、授業の一環で訪れた図書室でたまたま手に取った図鑑の中に、夕日を浴びて朱色に輝いた岩を見ました。理由はまるでわからないけれど、気づいたらその写真を凝視したまま授業が終わったんですね。10年足らずの人生で初めての出来事だったので、もしや前世からの縁があるのではないかと思ったくらいでした。
その一枚岩の名前がエアーズロック。周囲に住んでいた先住民がアボリジニ。それだけは忘れないでいた約30年後。縁あって取材で現地に行けることになりました。そこで改めて調べたら、後に入った西洋人の名前に由来したエアーズロックは、先住民の名称であるウルルに改名されていると知りました。アボリジニもアボリジナルピープルや、ファーストピープルと呼ばれるようになったそうです。
ただ知らないだけだろうけれど、民族対立のようなものを直に体験していない僕は、そうした先人に対する敬意の示し方は当然と思ったし、むしろウルルと呼べる方がうれしい気がしました。そんな呑気さとはまったく別の次元で、先も後も含めたオーストラリアのすべての人には、揺るぎ難い歴史への憂慮があるのだと思います。
2008年の今頃のニュース記事によると、謝ってもらうまでに200年以上かかったとファーストピープルの人々が語ったそうです。率直に、過去を悔い改めるのに200年もかかる業を生む人間の哀れを感じました。また、それでも罪を犯した者は謝るべきであり、虐げてきた人々に許しを請い続けなければならないということも。
極めて複雑な問題をざっくりまとめますが、間違ったらごめんなさい、ですよね。それもできれば早いほうがいいというのは、人類共通であると。幼い感想ですみません。

冬至から約1か月半。日差しの色味が変わってきていますよね。

 

身内びいきだったのに

現在開催中の冬季オリンピック。何を軸に注目するかというと、それはもう身内びいき的に自国の選手になりますよね。テレビ中継のプログラムも、日本代表が出場する競技がメインだし。
その上で、観るべき競技を選んでいくと思いますが、自分が経験したことのあるものに関心が向くのは、極めて自然なことでしょう。その線でいくと、僕はアイスホッケー一択になります。
そんなわけで、身内びいきとともに女子日本代表チームの試合を観てきたのですが、とても複雑な思いを抱いたというのが今日の本題です。
すでに報じられているように、予選リーグB組に属した日本は、1勝3敗で準々決勝進出ならず。とは言え、国内ではマイナースポーツのアイスホッケーなので、多くの方が特に気にも留めていないかもしれません。
実は僕にしても、オリンピックが始まるまで女子日本チームの現状をよく知りませんでした。でも、ちょっとした期待があったのです。
予選リーグB組に出場できるチームは、世界ランキング7位から15位。日本は8位で、B組内ではスウェーデンの7位に次ぐ上位2位。初戦で勝利したフランスは15位で、2戦目のドイツは9位。地元開催枠のイタリアに至っては18位でした。この数字をもとにすれば、3勝1敗もあり得た。しかしランキングは目安に過ぎなかった。
ご批判覚悟で感想を述べると、女子日本チームはどの試合でも勝ち筋が見えませんでした。他国との体格や体力の差は明らかだったものの、それを踏まえた戦術すら感じることができなかった。いやまぁ、さすがに「経験があるから自分なら」などと驕った気持ちにはなりません。ただ、下手くそな自分もやっていた非効率なスティックの振り回しなどが随所に見られて、「世界8位なんじゃないの?」と嘆いたり。それゆえ、身内びいきで注目したはずなのに、むしろ身内に厳しい見方になっていくのが酷く苦しくなりました。
前回の北京大会から大幅な世代交代があったとか、事情はいろいろあるようです。なので、結果について文句を言いたいわけではないんですね。彼我実力差を体感して傷ついているに違いない選手たちを責めるつもりもありません。あくまで、僕の見方の問題です。
たぶん、身内的ではない選手による、経験値がない競技を観るほうが、変なバイアスなしで楽しめるんだろうな。すると、何を観たらいいんだろう。そんなこんなで、今ちょっと困っています。

何かつけクレーンに目が向く感覚、もはや自分でも理解不能です。