3万円と最中

たびたび母親ネタですみません。親子であっても気持ちはよくわからないなあという件について話します。
その前に、膝の手術後の経過はすこぶるよいことをご報告しておきます。退院以来初の診察では執刀医も終始笑顔を浮かべるほどで、何より本人が「こんなに歩けるとは思わなかった!」とよろこんでおります。
だからと言って、加齢による膝の湾曲で苦しむ方々ないしはご家族に、手放しで人工膝関節全置換術を勧めることはできません。入院の不安はなかなかのものだったし。ただ、そういう選択肢もあることだけお伝えできればと。
話は母親に戻ります。先述の退院以来初の診察に行く前、例によって母親の住まいを訪れ、診察券や保険証を収めるファスナー付きケースを確かめたら、中に診察予想金額をはるかに上回る紙幣が入っていました。ちなみに、その日の診察料金はわずか200円。後期高齢者はそんな程度です。なので、こんなに必要ないと。それに、傷の治りも問題なさそうだから、いきなり再入院で不意の出費を考えなくても大丈夫と諭しました。
「その3万円は、あなたたち兄弟へのお礼。今回はずいぶん世話になったから」
いやいや、ですよ。こっちにはそういうつもりがないし、ましてや90歳を超えた母親から小遣いすらもらえるはずがありません。
「あの子(弟です)も断ったけれど、もらってもらわないとこっちの気が済まないから」
こっちが衝突し合って訳が分からなくなりますね。けれど息子として推し量れるのは、世話をするのは自分であるべきという本意を崩さない母親の立場ないしは意地。もはや一人では通院がままならい事実を受け入れつつも、感謝と無念を秤にかけたら、後者に傾くのかもしれません。
そのあたり、言及しないでおきました。プライドに関する領域はよくわからないままにしたほうがよいだろうと思って。それにおそらく、想像以上に膝が回復した実感がもたらした振舞いなのでしょう。今回は渋々受け取りました。それにしても、母親から現金をもらうなんて何十年振りだろう。こっちの照れなど気にしてないんだろうな。
「あと、この前あんたにもらった最中。すごく美味しかったから、1個取っておいた。食べて」だって。
いやいや、それもとっとと食べちまえばいいのに。何なんでしょうね、母親って。ネタに事欠かないのはありがたいけれど。

こちらが取っておかれた最中。もう1個の小豆餡を先に食べたのは、好みだったからに違いない。

 

時代の気分

当事のリアルな気分を知りたいという話です。前に書いた覚えがありますが、1876年(明治九年)3月28日は、時の政府が廃刀令を発した日。要は武士の魂とされた刀を持ち歩くのを禁じるというお達しでした。
明治初期は、江戸時代から一気に変わろうとたくさんの廃止策を打ち出した時期でもあります。藩を県に置き換える廃藩置県は1871年(明治4年)。古い暦を捨て、現代の暦に改めたのが1873年(明治六年)。同年には、旧藩の軍事要塞として全国に建っていた城のほとんどを売却または廃棄することを伝えた廃城令も出ました。
新しい元号になってわずか数年で、ここまであれこれ廃するというのも、なかなかの慌てぶりです。けれど大改革を実行するなら、畳みかけたほうがよかったのかもしれません。でないと、長く特権を享受してきた武士階級の不満を押さえ切れないだろうから。ゆえにたぶん、廃刀令が発せられた頃には、もはや武士の方々も時代の波に抗う気力が失せていたんじゃないでしょうか。
一方、武士ではなかった一般市民にしても、世の中がめちゃくちゃ動いている実感を覚えたはずです。そのときの気分みたいなものを歴史の授業で教えてくれたら、年号や事例の記憶に鮮やかな色がついた気がします。
廃刀令から64年後の1940年(昭和十五年)の今日。ウィキペディアによれば、これまた時の政府が促した敵性語の追放と言い換え運動によって、十数名の芸能人が改名を迫られたそうです。敵性語とは、日中戦争から太平洋戦争で敵国となった英米の言葉。英語ないしはカタカナ語のことです。
改名させられた芸能人のひとりがディック・ミネさん。僕にしても晩年しか知りませんが、この方のディックは男性器の俗語にちなんだらしいんですね。それをどう日本語に言い換えたのか興味が沸きますが、ごく普通の日本人名にしたそうです。
今から思えば、暦とした大人が考えるには極めてバカげた話としか言いようがありません。しかし相応の罰が下されるとなれば国民は従わざるを得ない。その背景にあったのは、戦争でした。昭和の敵性語はまさにそうだし、明治初期の変革にしても、外国の脅威に対抗する軍国主義化の早期確立が軸となっていた。
もちろん明治と昭和の取り組みを並列にはできないけれど、それでもやっぱりダメなんです。国を守ると言いながら、国民の自由を奪う戦争は。行き着くのは常にそこなのに、それでも対立がなくならない時代の気分は、昔も今も同じでしょうか。

ことごとくクレーンが目に入ります。入りませんか?

さあ

「さあ」です。この言葉、要は気合い。およそ何かが始まるときにひとり奮起したり、ともに始めたい相手に興奮を共有してもらいたくなると、思わず声に出ますよね。一方、問い掛けの答えが見つからなかったり、返事をぼかす場合にも用いられます。
今日の僕の「さあ」には、曖昧さの成分は含まれていません。答えはちゃんと出ているし、それに向かう行動も確定している。ただし、手放しの奮起とはちょっと違うというか、重い腰を上げるために気合いを入れるというか、そういう気分の「さあ」です。
メジャーリーグが開幕します。正確に言えば、昨日の26日が今季の始まり。いくつかのチームはすでに開幕戦を終えました。なのにまだ蓋が開いていないように感じるのは、大谷翔平選手が所属するドジャース戦の今シーズン1戦目が、日本時間の今日行われるからです。
「また大谷かよ」って嫌気が差す人が少なくないらしいですね。メディアの執拗な取り上げ方が原因らしい。そりゃそういう感覚になるかもなあと思うので、そんな方々を否定しないし、ましてや「さあ」と呼び掛けたりもしません。
ひねくれるわけでもなく僕が大谷選手を追いかけるのは、誰に頼まれたわけでもない個人の趣味だから……。
そう、趣味という他にない執着ですね。いつからか、彼が出場する試合は放映される限り全戦録画。リアルタイムから少し遅れて追っかけ再生する午前中を過ごすようになりました。後に結果だけ耳に入るのが嫌なので、午前中に視聴時間が取れないときはあらゆる野球情報を遮断して、その日のうちに観る。当日が賞味期限の高級大福を捨てたくないのと同じ心持ちで。
という作業を繰り返していくと、やがて義務感や疑念が芽生えてきます。でも、これにも答えがある。それこそ執拗なまでに僕が見たいのは、ダイジェストが断片的に報じる「今日の大谷翔平」に至る調子の波なのです。
名前を聞くだけで拒絶反応が出る人が増えたスーパースターでも、上手くいかないときがある。その避け難く訪れる不調をいかに克服するか。そこをちゃんと知っておかないと、物語を見届けたことにはならない。だから1戦も逃せない。だけど全戦をカバーするとなると、相応の気合いが必要になることを、僕はすでに何度も経験しています。
そこから発生する、執着を交えたあらゆるネガティブ要素と対峙するため、僕は「さあ」と自分を鼓舞するのです。いやまったく皆さんにはどうでもいい話ですが、ここから半年以上、僕は僕で戦っていく所存です。

咲き始めた桜の脇の赤い花。名札の心配りが素敵だなあと思って。

彼女はおそらく

直感的に書きます。いよいよ最終週となった朝ドラ。半年なり付き合ってくると、相応の覚悟を持って最期に立ち会わなければなりません。なぜなら、大河ドラマもそうだけど、それらは常に主人公の人生をほぼ時系列でたどるので、最終盤では主人公の死を意識せずにはいられなくなるからです。
それは、番組をつくる側も同じでしょう。ただ、人の一生は死に際ではなく、生き様を語るべきという考えもあって、必ずしも臨終をクローズアップしなくてもいいかもしれません。けれど、ドラマの構造が定番を守り通すなら、制作陣は毎度訪れる瞬間の描き方に責任を持たなければならないと思います。
などと大層に語ったところで、リアルに見せられてもしんどいですよね。特に身内を送った経験のある人は、諸事情の違いはあれ流れを知っているから大丈夫と、そういう心持ちになるだろうし。だからむしろ、「そんなんじゃないなあ」というくらい、フィクションとして綺麗にまとめてくれたほうが安堵したりします。昨日の『ばけばけ』も、そういう演出でした。
そう了解した上で、さらに素人が偉そうなことを言えば、重要視したいのは死の予感です。これはそれぞれの物語、ないしは登場人物によって、千差万別だと思うんですね。ゆえに不謹慎な表現をすれば、描き甲斐があるはず。
けれど本当に怖いのは、死という絶対的な別離より、不意を突かれるように死の予感を感じてしまったときなんですよね。僕がそうだったという話に過ぎませんが、だからこそ実世界でも体験しかねないその場面に注目してしまうのです。あるいは、物語全編の底を流れる理念の伝え方において、極めて重要なポイントになるとも思うし。
ここからはネタバレです。昨日の回で、主人公夫婦の夫が他界しました。死の予感から最期まで1話で済ませたのは呆気なかった。でも、実際の感覚もそんなものかもしれません。それよりも改めて気づかされたのは、何をいまさらと呆れられるでしょうが、真の主人公が妻だったことでした。彼女はおそらく、覚えたくなかった死の予感や、見届けたくなかった最期を乗り越えて、大事な人の生き様を語ろうとするでしょう。その大役を果たすための、あと2回30分……。
その一方で、来週にはまた新しいドラマが始まるんですよね。終わりと始まりを俯瞰し続けるのも、なかなか大変です。嫌なら降りてもかまわないんですけれど。

咲いてるねぇ。

直感と洗濯機

決断に迫られるとき、目の前にあるのはおよそ二つの要素ですよね。いわゆる二択。それが三択や四択など選択肢が多く残されている状況は、まだ判断のレベル。伸るか反るか、行くか戻るかまでの瀬戸際に達していないわけです。
でもって決断は、どちらか選ぶ場面を予感した時点で、実は直感が答えを示しているはずです。ただ、熟考という頭のよさそうな作業に取り掛かると、結果的に非生産的な時間を費やす羽目に陥る。必ず後悔するのはそれ。ふむ、確かにそれは何も生んでいないし、むしろ消耗の一途と言えるかもしれないな。え~と、洗濯機が壊れた話です。
いつものように洗濯物を放り込んでスタートボタンを押して、別の作業を始めました。別の作業と洗濯にかかる時間がほぼ同じだったので、洗い終わればすぐに干せると見込んで。日々は合理的であるほど美しくなるのです。
ところが別の作業は終わったのに、洗濯機は“すすぎ”に移行する残り16分を表示したまま、まだうんうん言ってる。端折りますが、抽斗の奥にしまった取扱説明書を引っ張り出しても、そこから先には進まなくなりました。
果たして本当に「いつものよう」だったか? 違います。少し前から、無駄に筋肉質な大男が狭い部屋で暴れるような大きな音が出ていました。洗濯槽だけ宙に飛び出だす様子をイメージさせるほどに。
そこで直感がささやいたのです。「もう無理」。その意見を支持したのが、買ってから10年は経っているという事実。この時点で自分の中から聞こえてきた声に従っておけばよかった。
今になって頭に浮かぶのは、10年も頑張ってくれたのだから最後まで見届けるのが義務という、優しい嘘。そんなものをついた先で悩まされるのは、代替新品の納入までに10日かかる現実と、それまでの洗濯をどうするか問題。
家電量販店で担当してくれた店員さんにたずねてみました。10日もかかるならどうしましょうかと。「ワシが知るかい!」とか明るく突っ込んでほしかったのだけど、極めて冷静に「コインランドリーですかね」と返されました。そのアドバイスに従う日々が始まっております。皆様も、日常の一端が破壊される前に、内なる自分がささやく直感に耳を傾けてください。生産的な鐘の音が響いているかもしれません。

1枚だけ残っていたホーム端っこ写真。これを見ただけで駅名を当てられる人がいるのかな。

要するに、ただのアンチ

春の選抜高校野球が始まっておりますね。僕の周囲には、野球の中でも高校野球が大好きな人がたくさんいます。人様の趣味嗜好はそれぞれゆえ、揶揄する気などまったくありません。ただ、僕自身も野球好きながら、高校野球だけ別格ということにはなりません。その最たる理由は、様々な学生競技がある中で、いまだ高校野球だけ神格化されているから。神格化が大袈裟なら、こうあるべきという形にとらわれ過ぎていると言い換えてもいいです。いやまぁ、それこそが揶揄と叱られそうですけれど。
たとえば、昨年の夏も書いた記憶がある白いスパイク。それまでの黒一辺倒だと昨今の温暖化で足がしんどいので、熱を溜めにくい白もOKになったわけですが、全員いっしょではなく何でもアリにしたら、お手頃なセール品で済ませられたりするんじゃないでしょうか。
とか言えば、必ず反感を買います。「そろっていないのはおかしい」とか、「そもそも、らしくない」とか。でもたぶん、高校の野球部ってかなりお金がかかると思うんですよね。持続可能性を重視する世の中になったのに、保護者の継続的負担を考える視点はほぼ目や耳にしません。
高校野球だって進化しているぞというご意見もおありでしょう。今年の春の大会からDH制が導入されたのは僕も知っています。DHはDesignated Hitter.日本語訳は指名打者。大谷翔平さんの活躍で多くの人が知る言葉になりました。一般的には、専門性の高い投手に代わり、打つ専門の選手を打順に入れる仕組。従来の先発メンバー9人に対し、10名が最初から試合に出られるので、出場機会が増えるよい方法だと思います。
それよりも、新たに導入するならビデオ検証はどうでしょう。そう思ったのは、これまた高校野球はいまだに見た目のタイミングでアウト・セーフの判定が行われているように感じたからです。しかし選手たちは、わずかな間隙を縫った繊細なプレーをしている。その判定が勝負の行方を決するなら、そこはテクノロジーを利用し時間をかけて見直してあげてもいいのではないかと。
いや、わかっています。現在の高校野球でビデオ検証など絶対無理の最たるものであることは。いつかは導入されるかもしれません。でも、僕が生きているうちはどうだろう。
とか、実は高校野球を穿った目で見ているのが自分だという自覚はあります。じゃ気にしなきゃいいのに、それもできない。要するに、ただのアンチ。こういうタイプがいちばん面倒臭いですよね。すみません。黙って観戦します。

たぶん20年ぶりの駅前。あまりの変わりように驚きました。どこ?

 

つまらないヤツの究極の朝食

朝食について書きます。思い付きのネタだけど、自分の性格が反映されているように感じたのが理由です。
現在の段取りと内容は次の通り。まず、使い古した小さいフライパンを温め、何の変哲もないソーセージを2本投入。続いてコーヒーメーカーで3杯分をセット。フライパンのソーセージをころころ転がしつつ、コーヒーメーカーがポコポコ歌うのを聞きながら、冷蔵庫からカット野菜と玉子1個を取り出し、サラダはテーブルへ。玉子はちゃかちゃかっと溶きます。
ずいぶん前、カット野菜を使っていると言ったら「洗わずに食べられるなんて」と顔をしかめた人がいたけれど、あるときテレビでカット野菜の工場を見たら、極めて神経質に衛生管理をされているのを知って、より気にならなくなりました。
ソーセージに良き焦げ目がついたら皿に移し、フライパンに少量の油を注いで溶き玉子を。毎回形が違ってしまうオムレツ風に仕上げます。
そしてパン。2個のバターロールをトースターへ。中央に切れ目を入れるようになったのは、わりと最近です。野菜とソーセージと玉子を挟んだら食べやすいかも? と思ったのがきっかけでした。
最後に、そうしたほうがバランスがよいと素人なりに考えた末、オレンジを一個トレーに載せてセット完成。以上が僕の通常の朝食です。もし毎朝出勤する生活なら、洗い物も出るここまでの手間はかけないでしょう。
さておき、この朝食が美味いかと言えば、決して不味くはないけれど、その後の活動を安定させるための、ただのルーティンに過ぎません。ルーティンのメリットは、一度決めれば従うだけ。余計なことを考えずに済むところです。
ただ、いつも同じなんておもしろみに欠けるんじゃないか。ってことは、オレってつまらないヤツなんじゃないか? そうした気づきは、ソーセージを焼いている最中、何度も頭を過っています。けれど変わらずに続けているのはなぜか。堅実? いや、芳しくない意味での保守性?
おそらくこの朝食には、元来の性格が反映されているに違いありません。けれど真実を探求する前にすべてを食べ尽くしてしまうのも、要するに毎朝のルーティンです。あるいは、朝っぱらから意味や意義など考えなくていい、僕にとっては究極のメニューなのかもしれません。

この町のどこからでも見えていたクレーンがついに撤去? お役目ご苦労様、なのかな。

競技そのものよりも

なぜかタイミングがフィットして、現在カナダで開催中のカーリング女子世界選手権の日本戦を観ています。無論、テレビ中継です。予選ラウンドは9勝3敗の3位。準決勝進出をかけたプレーオフに進みましたが、これを書いている時点では試合が始まっていません。言うまでもなく優勝に届いてほしい。でも、それ以上に興味を覚えたことに触れます。
件の選手権で戦っているのは、これまでのオリンピックでおなじみのロコ・ソラーレ。しかし、ミラノ・コルティナ2026に出場したのはフォルティウス。後者が最新の日本代表なら、そのまま世界選手権に出るんじゃないの? と疑問に感じますよね。その経緯、ちょっと探ってみたら、各大会の国内選考基準が異なるみたいです。
オリンピックに出られるのは、五輪代表決定戦の勝者。世界選手権は、1月末までのワールドカーリングチームランキングで国内最上位チームに出場権が与えられるそうです。それが異なったので、世界選手権にはロコ・ソラーレが出ていると。
加えてカーリングの不思議さは、チーム単位で日本代表を選考するところです。日本人最強集団を編成するなら、野球やサッカーのように、所属チームの垣根を超えた人材選びをすればよさそう。なのに、ことさらコミュニケーションが重要なカーリングでは、普段から行動を共にする者同士を優先するらしい。
だからなのかなと思いました。馴染みがあるからかもしれないし、今大会の成績が良いからかかもしれませんが、ロコ・ソラーレの試合は観ていておもしろいのです。どこがどうとは言い難く、極めて曖昧な表現しかできないけれど、どんな状況も楽しんでいそうな温かな気配が、チームメンバー全員から感じ取れるからだと思います。そういうのって、場合によっては結果を超えるんじゃないでしょうか。つまるところ僕が見たいのは、競技そのものよりも人ないしは人々なんだと、改めて感じ入った次第です。
でね、現在のチームの雰囲気をぜひ体感していただきたいのですが、そのためには決勝ラウンドに勝ち残ってもらわないとなりません。そこが結果ありきの競技の厄介なところなんですよね。

雨でグラウンド使用不可。急きょ室内練習場へ。阿呆なほどの野球好きよね。

それ自体がなくなったことにはならない、としても

小さい頃、というのは10歳前後。足元に落ちている石ころを眺めて、こんなことを考えました。これを遠くに投げて、他の石ころたちと混ざって見分けがつかなくなっても、その石ころ自体がなくなったことにはならないと。
哲学的なようで、その実「だから何だ?」という話ですが、僕は今でも何かを失いかけているとき、その降って湧いた啓示めいた考えを思い出します。つい最近もありました。
ショッピングモールで予定外に買った靴下の代金を支払う場面。ご機嫌な笑顔を浮かべる店員さんに「駐車場のご利用はありませんか?」と聞かれ、ふむふむと上着の右ポケットに手を入れたら、あるはずの駐車券がなかった。ならば左ポケット? ズボンだっけ? とあたふたし始めた僕が不憫に見えたのでしょう。表情を困惑の共感に切り替えた店員さんが、「他のお買い物で合算できますよ」と切り出してくれたので、それ以上の醜態を晒すことなくそこから去ることができました。
その刹那、トナオ10歳がよみがえりました。紛失したのは、おそらくただの不手際。けれど理由が何であれ、僕の手から離れた駐車券がこの世から消えてなくなることはない。そう思ったら、その事実が尊く感じられたのです。それに満足して一切探しませんでした。なぜなら、係の人に話せば駐車券の再発行ができるはずと高を括れるだけの、あれから50年で身に着けた知識と経験も具えていたから。
その数日後に別件が発生しました。遅めの時間に帰宅し、すぐに可燃ごみをまとめ、集積所に向かうべく部屋を出ようとしたら、鍵がない? わずか数分の作業で行方不明になるなんてあり得るのか? 仮に失くしたと判断しても、こんな時間じゃ大家さんに相談できないし、昨年あたりも自宅に居ながら鍵を見失ったから、二度目の申告も気が引ける。さて、どうしよう。
ひとまず深呼吸。まさかと思ってごみ袋を持ち上げたら、底のほうに可燃と分類すべき金属の塊が……。
他と混ざって見分けがつかなくなっても、なくなったことにはならない。そんな啓示を受けた10歳の自分に伝えたいことがあります。君の足元にあった石ころが、君にとってかけがえのないものだったら、そもそも遠くに投げたりしないだろう。それよりも重要なのは、この先の君は自覚が乏しいまま、いろんなものを失う人生を歩む。だからくれぐれも注意せよ。という訓示を与えても聞く耳を持ってくれるか、今の僕にも自信がありません。

春キャベツ半玉88円(税別)。安いんだろうけど、欲しかったのは4分の1サイズだった。

 

おだやかな春分の日に

入退院についてお伝えして以降、母親に関する話題は高齢者のリアルが過ぎるんじゃないかと臆したり、一方で伝えたからにはその後も報告するべきかもと思ったり、あれこれ逡巡しております。けれどおかげさまで経過はよいし、身内ながらおもしろい発見があるので、今日は国民の祝日に合わせて解放することにします。
退院に際し、自分と弟でそれぞれ週に一度、母親を訪ねようと相談。確定したルーティンの中で、息子になって64年目で初めてやったことがありました。初週は母親の家で冷凍保存用に白米を炊き、翌週は自宅で冷凍した白米を届けるとか。母親にすれば、「何にもできなかった長男がご飯を炊くなんて!」と呆れたかもしれません。しかしそれは口にせず、「あんたのお米、美味しかったよ」と無邪気に言うのです。照れだけではない奇妙な感情が先に立って、何も言い返せませんでした。
2週目からは手土産持参。すぐに食べられる晩飯の用意を考えたのですが、今の母親が何を好むかわからず、食品売り場で右往左往。結局、生魚をあまり使っていない寿司と、小ぶりの和菓子を2週連続で買いました。それにも手を合わせてよろこぶので、リアクションに困りましたけれど。
じゃ、さっそく和菓子を食べよう。お茶を淹れると動き始めたら、「その前に、お父さんにあげて」と制止されました。「私だけもらったらお父さんが拗ねるから」と、まずは仏壇に供えろと。きっと母親は、そうした日常に溶け込んでいる宗教的習慣を疑うことなく守ってきたのでしょう。何十年も変わらぬ表情で写真に納まる父親と目を合わせたら、「なぜ知らなかった?」と問い質されたような気持ちになりました。何かもう、感情が多忙になりますね。
「お彼岸だからか」と言われてハッとなりました。一昨日の和菓子は、きな粉とごまのおはぎ。春はぼたもちと呼ばれることを承知したような、時候的な気遣いをしたつもりなどなく、自分のあんこ好きを反映したチョイスだったけれど、それすら母親は見透かすのかもしれません。だから、また黙りました。しかし「さっきまで金曜日が祝日なんて気づかなかった」と一人笑っていたので、よくわからなくなります。
まあ、いいか。すべては成すがまま、おだやかな春分の日になることだけ祈っていれば。

世間が桜の開花にうるさいので、再びハクモクレンを。こっちも素敵に咲いているのにね。