立春、ありがとう

今日は立春。枕詞として使われる「暦の上では」の、二十四節気の始まりです。毎年同じ話題に触れていますけれど、この日に特別な思い出があれば、特別視したくなるのも人情ってことでお許しください。
あれはまだ、マスクなしで外出できなかった2023年の2月4日。プロ・ギタリストによる試奏会イベントの取材で、僕は1本のギターと出会ってしまいました。つまるところ約20年振りに一生物と呼ぶべきギターを買っただけの話ですが、そこに至るまでの流れに因果のようなものがあったのです。
大元は還暦。避け難い節目が間近に迫った頃、オレもいよいよ終局を迎えるのかと、いくらか憂鬱な気分になりました。そんなとき、ギター関連の仕事仲間が提案してくれたのです。そのアメリカ製ギターメーカーの本社工場を訪れ、還暦祝いのカスタムオーダーをしてみたらどうかと。
大袈裟に聞こえるでしょうが、パッと目の前が開けたような感覚を覚えました。自分を祝うことなど考えてもみなかったけれど、還暦記念を想像したら、歳を取るのも悪くないと思えたのです。それに、高価なカスタムオーダーなど分不相応ながら、人生の暦を一周してもなお日々を過ごすなら、新たな一生物を手に入れるのにふさわしいタイミングかもしれない……。
そんな胸の高鳴りを一気にミュートしたのがコロナ禍。アメリカどころか近所の外出さえ制限される中で、僕は60歳の誕生日を迎えました。
もちろん、時期的に還暦記念の喪失程度で落ち込む場合じゃないことは理解していました。けれど極めてミクロ的個人の観点に立つと、オレの人生ってこんなもんかと、しょぼくれた心持ちになったのは確かです。
そうして、すでに60歳となって約4カ月後。僕が欲しかった形と装飾に留まらず、驚くような響きを備えたメーカーカスタムが目の前に現れたのです。それが暦の上で1年の始まりを示す日だったら、こりゃもう必然に違いないと思い込むのも人情ってやつです。
以上が、60歳以降になって毎年思い出す立春の出来事。冷静になって考えると、どれもこれも出会いを言い訳にしているような気がしなくもない。その一方では、求めているからこそ出会いが生まれると思ったり。なので、わりと長く生きてきたからとあれこれ諦めないほうがいいかもという足掻きを教えてくれたのが、僕にとっての今日なのです。立春、ありがとう。僕もギターも元気です。

3年前のギター受け取りに立ち会ってくれた店員さんたち。お元気ですか?

フロリダのイグアナと近所のタヌキ

お昼前後の情報番組の天気コーナーで、「次のふたつの注意報のうち、実際に出されたのはどちらか?」というミニクイズがありました。ひとつは忘れてしまいましたが、正解はアメリカでのイグアナ注意報。極端に気温が下がると、木の上にいるイグアナが凍え切って仮死状態となり、バラバラと落ちてくるそうな。
ほお、ですね。ただ、それの何に注意すべきかまでは放送で教えてくれなかった。僕は勝手に、大量に落下するイグアナの頭部直撃をイメージしましたけれど。
そうしたら月曜のニュースです。記録的寒波に襲われたフロリダで、木から落ちたと見られるイグアナの写真が伝えられていました。注意報発令に関しては記事で触れられていません。でも、複数の目撃情報があったらしいので、一定量のイグアナが落下したのは間違いないようです。
ふと思いました。フロリダのイグアナたちは、気を失うほど凍るまでどんな気分でいたんだろうと。「俺たち変温動物だから、外気温が下がれば動けなくなるよねぇ」とか、我が身の宿命を甘んじて受け入れながら、静かに瞳を閉じっていったのでしょうか。
さておきイグアナ落下で注意すべきは、家に持ち帰るなどして温めた場合に予測される反撃行動らしいです。元より彼の地のイグアナ、正式名グリーンイグアナは、おそらく人間の手によって放たれ繁殖した侵略的外来種なので、フロリダ州の魚類野生生物保護委員会は、回収したら当局に持ち込むことを促しているそうです。仮死状態から目覚めても処分措置が待っているなんて、何と言うか、気の毒ですね。
今日の話、実はお蔵入りさせるつもりだった情報につながります。自宅からクルマで10分圏内の深夜の通りで、タヌキを目撃しました。つがいか親子か不明ながら2匹。ちなみにその界隈は、林や森などが見当たらない住宅地。そんな場所で生きながらえているなんてね。
彼らは恒温動物なので、最近の寒さでも仮死状態に陥らないのでしょう。そしてまた、付近に住む知人たちからの目撃ないしは被害情報を耳にしたこともないので、そっとしておくのが最善かなと。なのにイグアナに抱いた切なさで、つい書いてしまった。あの晩のタヌキたち、すまない。どうか無事に冬を越してください。

クレーン続きで恐縮。町のどこからでも見えるそれが、また2機に。完成はいつなんだろう。

 

 

クレーン好き

ここの下で毎日1枚アップする写真には、わりと頻繁にクレーンが登場します。何となく好きなので、街中で見つけると、つい注目してしまうんですね。その「何となく」を整理してみることにしました。
Craneはもともと鶴の意味。その姿が、首の長い鳥に似ていることから命名。日本語訳は起重機。なおかつ日本の法律では、動力を用いて荷物を上げ下げするだけでなく、水平にも運搬できる機械装置のみをクレーンに定めているそうな。
以上はウィキペデアによる説明です。種類もたくさんあるようですが、組み立てられた場所から動けないタワー系と、クルマのように自走が可能なクローラー系のふたつに大別していいみたいです。いいのか? 本日の話題的には問題がないので先に進みます。
僕はタワー系もクローラー系も、どちらも好きです。それ以外に用途がない専門性に特化しているから。仮に他の職域では素人以下で、しかも裏方的な存在であれ、その仕事では右に出る者がいない職人的な特性がカッコいいんですよね。自分がそうなりたいという憧れや目標と被るところがあるのかもしれません。
そしてまた、クレーンを要する工事とは、そこに何か新しいものができる状況を示すことになります。それは単純に、未知への期待を呼び寄せてくれるわけです。けれど同時に、慣れ親しんだ何かが失われる実情を思い知らされることにもなるんですよね。
日本の都会は、スクラップ&ビルドを良しとしながら発展してきました。だから少なくとも東京は、いまだに大規模な再開発が止まりません。その是非はさておき、二律背反的な現場があれば、クレーンは必然的に投入される。誰かにとって大切な風景が消えるとか、あるいは別の誰かにとっては新たな思い出の場所になるとか、そういった風情や情緒とは無関係に。
いや、クレーン自体は機械ですから、彼らが何かを思うことはないけれど、僕はクレーンを見上げるたび、廃棄と構築の両方を担う存在に哀愁のようなものを感じてしまうのです。特に作業を終えた夜間などは、吹きっさらしの高所で寂しくないのか、とか。
ベランダを見渡したら、数本のクレーンが目に入ったので、こんな話題になりました。そのすべてが、無言で愚直に働いていたようです。

僕が数えた限りでは5機。多いような気がするな。

理に適う

基本がしっかり身についている動きには、沸き上がる憧れが止められません。野球の話になりますけれど、僕が所属するチームの30代あたりに、高校まで野球部に入っていたメンバーが数名いて、その彼らの一挙手一投足がカッコいいのです。
所作と言うべきなんでしょうね。スポーツに限らず舞踊などにも、理に適った動きがあります。理は、【ことわり】と読んだり、道の意味があって、その体現、つまり敵える上では、あらゆる無駄が省かれていくのが常です。なぜなら、無駄は結果までの道程を長くするだけでなく、いかなるときも同じ動作を行うための再現性を阻害する要因になるから。そうした理に適った動きを体得するには、基本を繰り返す他にないのでしょう。
とか、それっぽく言っていますが、学生時代に野球部で頑張っていた人々は、基本練習を徹底的に行ってきたはずなんですよね。部長や監督に強制された可能性もあるので、「毎日こればっかりかよ」と辟易していたかもしれません。でも、野球の理に気づいた者は、改めて基本の大事さを悟り、愚直なまでに同じ練習に励む。その成果が学生のうちに花開けば幸運。そうでなくても、一度身についた所作がやがて草野球で憧れの的になったりします。本人が望んだかどうかは別だけど。
そこでふと、我が身を振り返るわけです。野球は草レベルのみ。いつも見様見真似。然るべき基本を学んだことがない。他の事柄も同様。数年前までのアイスホッケーも我流だったし、中学から始めギターも誰かに習ったことがない。どれも相応に長くやっているので、それなりに形にはなっているだろうけど、腕の立つ人に見られたら簡単に見透かされるでしょう。
趣味の領域ならそれでもいい。しかし、生業にしている原稿書きはどうか? 場数だけはかなり多く踏んできた自負はあっても、仮に基礎検定試験の受験を求められたら、今すぐにでも廃業に追い込まれかねません。
所作は整っていなし、理に適った動きもできていない。ふむ。原稿書きは、今となっては手遅れに違いないので、このまま突っ走ることにします。けれど野球は、少しでもカッコいい動きができるよう若者たちに教わっていきます。間に合うかな?

今年に入ってからのグラウンドは、おおむね晴天続き。天気がよければ寒くても大丈夫!

 

健康に関するトピックス

水曜日の朝でした。目覚めて起き上がった瞬間、左肩に違和感。軽く動かしてみたら、肩甲骨のどこか奥のほうに痛みの元があるようでした。原因は不明。前日に肩を酷使するような運動はしていないし、先週末の野球練習に関連しているなら、右肩に症状が出るはず。あるいは、肩も寝違えるのか?
ひとまず、ぐるぐる大きく回してみました。それでほぐれるだろうと高をくくって。ところが、ある一定の場所に来ると痛みが出て、本来の動きにならない。何なんだこれは? と訝りながら、今日に至っています。
こういうの、嫌でしょ。年寄りが案外好きな、病気や怪我の自慢話みたいで。僕だって、他のネタを差し置いてまで書きたいわけでありません。でも、少し前の歯痛もそうですが、体のごく一部でも不和が生じると、気持ちがそこに奪われて、通奏低音のような憂鬱を感じざるを得なくなります。
とは言え体のごく一部なので、より広く深い痛みに苦しまれている方にくらべれば、「何を大袈裟に」ですよね。なのだけど、こういうときには奇妙なもので、YouTubeあたりで「肩の痛みを放っておくと危険! 四十肩・五十肩の原因が明らかに?」みたいなショート動画が流れてきます。関節の繊維化が疑われるそうな。
それはさておき、肩回りやら関節やらの動画を見たわけでもないのに、なぜこうなるんだろう。何かを探られているとしたら、怖いのはそこだけどな。
いやまぁ、大して深刻ではないから報告できているので、お気になさらないように。自分でも、そろそろ治るんじゃないかという予感があるし、今日この後の野球の練習でふっと消えることを期待してもいます。
なのだけど今月は、同世代の方が年始からインフルエンザに翻弄されたとか、いつもながらの母親の状況など、健康に関するトピックスが多かった気がします。そんなところに突然の歯痛や肩の不具合に遭遇して、他人を心配するには自分がちゃんとしてなきゃなあと思った次第です。
個人的には、わりと長く感じた1月も今日で終わり。月単位ではもっとも短い2月がやってきますが、お互い健康に留意して、むしろあっという間に過ぎてしまう日々を過ごしましょうね。ふむ、長老みたいな締めで、何か嫌だな。

工事現場を包む夕日が労働の尊さを讃えているような……。

 

「じゃないですかぁ」

所用で通りかかった、名もなき私鉄駅前の広場。いささか無駄に広く感じた場所で、選挙演説が行われていました。目立つ色合いの旗の前でマイクを握っていたのは女性。それこそ名前を知らないけれど、背後に選挙カーも応援者もなく、一人ぽつんと立って話していたのと、それに耳を傾ける高齢っぽい聴衆が数名だったことで、空間全体のさびしさが際立っていたのが印象的でした。
それから、彼女の話し方も気になりました。今時っぽいっていうのかな。「じゃないですかぁ」と語尾を上げるパターン、あれって何なんだろう。こちらが了解している前提で同意を促しているのかな。僕はそれ、一つの話題で意志疎通が完全に出来上がった相手にしか使えません。インタビュー取材ではNG。了解や同意の押し付けは、聞き手にあるまじき行為だから。
なのに彼女は、寒風吹きすさぶ中でも「じゃないですかぁ」を連発していました。急いでいたので顔をよく見なかったけれど、まだ若いのかな。にしても、訴えを届ける演説にふさわしいとは思えない口調だったんですよね。その、当人は敬語のつもりの喋り方がむしろ新鮮と、あえて修正を求められていないのかもしれません。
それも、通りすがりの僕にはどうでもよかった。ただ、広場から遠ざかる背中に届いた言葉が、別の意味で気になったのです。
「投票率、上げたいじゃないですかぁ。私もついこの間まで選挙に行かなかったから、投票がめんどくさい気持ちはよくわかります。けれど、政治に興味を失って投票に行かなかった人の多くが、生活に困っているじゃないですかぁ。そこから変えたいと私は思うんですが、皆さんも同じじゃないですかぁ?」
確かにそうだよなと同意したのは、孤軍奮闘していた彼女への同情が作用したのかもしれません。そうして直に声や姿に触れれば、絆されることがあるかもと思った次第です。いやいや、絆しで選んじゃいけないのでしょうが、遠く離れた町で立候補した彼女の今後に興味を持ったのは、これまた確かなことでした。

これは本文と別の場所の街頭演説。急に決まった選挙でも、聞き入る人は多いんですね。

つける嘘とつけない嘘

時事関連に触れます。電力会社が行った不正データ事件。歴史的な被爆体験や原発事故を経ている国なのに、なぜそんな捏造や改ざんができたのか、どうしても理解できません。その背景や事情、および嘘の良し悪しを取っ払って、こんなことを考えました。
端的に言います。人が集まる組織は、わりと簡単に嘘が生まれるんじゃないでしょうか。なぜなら、それが会社や団体の名称のもとにつくものだから。
けれど、どんな組織であれ、最初は嘘じゃなかったかもしれません。やむにやまれる中で微かに沸いた期待が、何人かの耳に入る過程で確信に偏り、組織の総意として固まっていく、ように思えます。
そこで起きているのは、責任の転嫁または希薄化。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という古の名ギャグがあるけれど、仮に嘘をつくにしろ、「みんな」である組織が行っていることだから通せるに違いないと強気になってしまう。
しかし、みんなで渡ろうと一人ひとりの信号無視は罪だし、集団で赤信号を突っ切る場面にクルマで遭遇したらたまったもんじゃありません。そうした集合体による判断の見誤りを、集団的浅慮と呼ぶそうです。
対して一個人は、社会を揺るがすような重大な嘘はつきにくい。0.5秒でも考える時間があれば、バレたときの責任を一人で負い切れない恐怖におののくはずです。それに個人名で虚偽を働けば一発アウト。当分か、または無期で社会的地位が取り戻せなくなる。
もちろん組織の虚偽も、やがて責任者の名前が公表され、この社会から弾かれる可能性が高まります。それで会社までなくなるかというと、首のすげ替えで生きながらえるかもしれないし、それが社会インフラを担う組織なら、なくすになくせない苦肉の策が取られるでしょう。
以上は、個人名で仕事をしている僕の、いささか穿った組織観です。特に恨みはありませんが、何かが起きたとき、社員たちが会社の名のもとに説明してくるケースは何度も経験しました。本当のことを言ってくれたらいいのにと思ったりするけれど、そうもいかない場合は嘘を利用するんでしょうね。でも大丈夫。僕一人くらいじゃ社会的な問題にならないし、理解できる範囲の嘘ならぐっと飲みこめるから。

極寒期はエンジンがかかり難い我がオンボロのスイッチを入れるときの、祈るような気持ちは誰も知らない。知らないほうがいいけれど。

大人なんてろくなもんじゃない

久しぶりに会った新卒社会人2年目が、今日は転職フェアに言ってきたと教えてくれました。初めて目にしたスーツ姿は、それが理由だったようです。
さておき、こういう若者を見つけた大人たちは、獲物に群がるかのごとく集まってきます。
「2年目ね。なるほど」
「今の時代は転職に抵抗ないもんね」
「何かやりたいことが見つかればいいよね」
「それを見つけるのが大変」
「俺は3回、退職願を出している」
「僕はついこの間、転職しました」
まったくもって好き勝手。アドバイスにすらならない。獲物になってしまった当人も、よってたかって言葉を浴びせられるから、返事をするタイミングを失っていました。
そりゃ何も言えないでしょう。現在の勤め先を辞したい意向を持ちながらも、次の場所を探している最中なのだから。それに何より、社会人人生が始まったばかり。
なのに大人たちは、自分の経験やら感想を話したがる。ろくなもんじゃない。などと思いながら、僕の頭の中でもほぼ自動的にいろんな考えが駆け巡るのです。
時代がどうあれ、初めて勤めた会社を7カ月で辞めてしまったので、そもそも僕には転職の良し悪しを語る権利がないかもしれない。それに自分は、やりたいことを見つけられたので、世間一般が言う大変さ、ないしは幸運の度合いが正しく理解できていないかもしれない、とか。
あるいは、転職する理由は様々ながら、今いる場所より良い場所に行きたい思いが原動力なら、その思いの終着点はどこなんだろうか。ついに行きたい場所が見つからなかったら、自分で働く場所をつくるしかないのだろうか、とか。
以上の考えは、今の彼に対してろくなもんじゃないと判断したので、口にしないよう我慢しました。結局のところ、本人がさまよった果てに答えを体感していくしかないですもんね。それに人生は、多少の迷子など問題にしないほど、わりと長くて頑丈なものだし。
それでも、これだけは聞いてみました。フェアはどうだったのと。
「閑古鳥が鳴いていた自衛隊のブースでかけられた、『君もどう?』の声だけが印象に残っています」
オレも初めて失業保険を申請した職安を出たところで声をかけられた。これは彼に伝えました。だからどうなんだという、やはり何のアドバイスにもならない話ですね。現在のハローワークがかつての職安だったことを知らなかった若い彼に、心からすまなかったと思っています。

Googleによるとモリムラマンネングサ。冬の夜でも青々。名前は伊達じゃないね。

リアルとリアリティ

昨日の「時代のOK」は、実はテレビ以外にも変化に関する件が重なったので、あんな話になりました。
テレビ以外というのは、音楽方面。もう20年以上、新しいアルバムが出るたび買い求めきたバンドの現在地に、ついていき難くなりつつあります。彼らのデビューは僕が聴き始める10年以上前になるので、キャリアも相当なものだけど、その長い経験が新たな創造を苦しめているじゃないかと、勝手に想像しています。
多くの人に名前を知ってもらえるヒット曲を生み出すだけでも大変なこと。あるいはそれ以上にしんどいのは、ヒット曲の連発かもしれません。前と違うものはつくれても、前とは違ういいものを提供するわけですからね。なおかつ売れ続けるためには、クリエーションの枯渇との飽くなき戦いを強いられるんじゃないでしょうか。
いや、好きな音楽家には、かつてのようなヒットを望んだりはしないのです。ただただ彼らなりの、そして僕にフィットする作品をつくってくれるだけでいい。そういう新作は、自分に慧眼があると誇るまでもなく、多くの人に響くのを知っているから。
けれど作者も年齢を重ねれば、世代的なリアルに目を背けられなくなるのかもしれません。甘いラブソングも、若い頃のようには書けなくなる。リアリティを発動させて創作ができるのは、30代ないしは40代前半が限界でしょうか。
様々な現実を知った自分を投影できなくなると、次は普遍的か哲学的な歌詞が多くなる。歌詞には音が乗るので、メロディがおもしろければ興味を掻き立ててくます。けれどメロディも、最近の若手の難解さに影響されると、そっちに行ってしまったかとなる。
わかっています。素人なりに音楽をつくる難しさは。それにファンなら、文句を言わずひたすら応援しろという信条も。だからこそ、あくまで僕の感性とずれ始めたのを承知の上で、ここ数年は新作を買い続けてきたのです。けれどいよいよ、次はどうしようという段になってしまった……。
これも要するに、互いの変化の齟齬なんですよね。人は僕に合わせて変化しないし、僕もまた人と同じように変われない。そうした客観的なリアルに直面して、主観的なリアリティが閉じていくのが、たぶんさびしいのでしょう。創り手のOKに応じたいんだけどなあ。とか言っても、いい意味で裏切られることを期待して、次までは聴くと思うんですけれど。

太陽を反射するビルがビッカビカなのは、空気が澄み過ぎているからだろうな。

時代のOKと僕の感性

半ば惰性的な気もするテレビ好きゆえ、期が変わると新しいドラマのチェックが始まります。僕は録画派。番組表を見て、題名と俳優陣を確認して、「ふむ」と思えたタイトルの第1話を片っ端から予約していきます。
すると、当然のことながら録画リストに[NEW]が増えていき、その様子に溜息をつきながら、予約した責任を果たすように再生していくわけです。けれど、この段階はあくまで確認作業。第1話で合格なら残留決定。次からの録画日は[毎週]に。次を観て決める保留になれば、翌週も日付で設定します。
そんな形で観るべきドラマを絞っていくのだけど、各新作がおよそ3話を迎える1月第3週となり、今期はほとんどが生き残れませんでした。僕にしたってテレビばかりに時間を割けないので、視聴本数を減らすのは既定路線。でも、「どれもおもしろくて困る」といった状況に期待しないわけじゃないのです。でも、そうはならない。最近は毎度のことですが。
そんな傾向に対して、やっぱりテレビはつまらなくなったと断じていいのだろうか?
ふむ。実際のところ、発見や新味が少なくなったのは間違いないかもしれません。個人的には職業系の物語に興味があって、そこに若者の恋愛模様が絡んでもいいのだけど、専門領域の描写が浅くなったり、雑に扱われ始めると、途端に残念な気持ちが広がっていきます。
一方、ここで疑ってみるべきは、自分自身の観点です。1本のテレビドラマが放送されるまでには、各段階の責任者の了承があるはず。それらが時代のOKならば、僕の感性がそれとずれているのかもしれない。
確かに、かなり長くテレビを観てきた経験によって、口うるさい批評眼しか持てなくなっている可能性は否めないでしょう。
いやしかし、他人に煙たがられるほど狭量になっていないとも思いたいんですね。創作や制作が好きだし、それにもしテレビを諦めていたら、いまだに期が変わるたび新作チェックはしないだろうから。
つまるところ、あらゆるものが変化するとして、それについていけなくなったのは自分なのか、または相手なのか。それが不安なのかもしれません。僕は自分じゃないぞと思っているのですが、高慢が過ぎるでしょうか。

枯れ芝が愛おしい、大寒の河川敷。