無になれる方法を体得しておけばよかった……。などと我が身に向かって切実に訴えるのは、自分ひとりでは解決できそうにない思い悩みに直面したときです。
思い悩みは、やはり不健康だし危険です。なぜなら、それに憑りつかれた途端、オートマティックで悪しき想像ばかりを描くようになり、やがて負のイメージに精神が縛られてしまうからから。ゆえに闇へと溺れる前に、実際に手を振り払って頭の中に浮かんだ悪しき想像を振り払うのだけど、また何かのきっかけで自動運転が再開してしまう。ネガに陥りやすいのは性格も関わっているのでしょうが。
そんな悪循環に直面すると、無になれたらいいのにと思うわけです。僕が考える無は、沸き上がった不安や心配が消去される状態。しかし仏教方面の無は、虚無や思考停止ではなく、善悪や好き嫌いなどの分別または執着を捨て去った、豊かで自由な心の在り様を指すそうです。
いや、豊かさや自由にすら執着する僕には到底無理な話。かろうじてできるのは、これまで何度か試して相応の成果を挙げてきた無我夢中への試み。文字通り我を忘れるほどひとつの物事に熱中できれば、束の間であれ思い悩みを横にずらせる。それに適しているのは、外気に触れながらの運動。そんなランニング改めジョギングをしてきました。
走り出しは、「そのための」という意識があるから、思い悩みが頭の真ん中で居座ったまま。しかし数百メートルを過ぎて息が上がり始めると、呼吸だけに思考が奪われていきます。生存本能なのかもしれませんね。運動に疑似死亡体験の要素が含まれているなら、何としても生きることだけ考えるようになるのか。いやまぁジョギングなので、そこまで切羽詰まりはしないだろうけれど、とにかく思い悩みが中央からずれてくれる点で、運動の即効性は確かです。
それを頼りにジョギング機会を増やしていけば、それこそ疑似でも豊かで自由な無の境地に触れることができるのだろうか。時が来なければ思い悩みの回答を得られずとも、待つ間の過ごし方として無我夢中の多用は悪くないかもしれません。少なくとも精神の器たる身体は健全になるかな。

見ていただきたいのは、桜が散る頃の影の短さ。半袖短パンで走れちゃったしな。

サイレンの合唱は、否応なく周囲を騒然とさせますね。



桜もいいけれど、菜の花の黄色もね。

