人に迷惑を

片道1時間半を要する定期的な電車利用が続く中、迷惑について考える機会が増えました。
リュックタイプのバッグを胸側にかけ直すのは、混んだ車内で人様にバッグがぶつかる迷惑を避けるためですよね。確かに、自分の目が届かない背面の膨らみを見落とす機会は少なくありません。でも、それが一般的なマナーとして浸透していても、僕はあれ何だかカッコ悪くてできないのです。
とは言え、自分の我を通すわけにはいかないので、車両が混んでいれば肩から外し、片手で持つようにします。しかし、人との距離が十分に取れるほど空いている車内でも、リュックは胸掛けにしないといけないのでしょうか。これなら大丈夫とノーマル掛けで乗り込んだら、チラチラと投げかけてくる視線を何度か体験しました。僕の顔に何かついていたのか? そうじゃないな。あれはマナー警察の私服警官に違いない。
僕の勘違いならいいんです。けれど、日本古来の「人に迷惑をかけてはいけない」という教えが形式化された結果、皆と同じスタイルでないと警戒されるなら、それはそれで迷惑なことだと思うのですが、どうでしょう。
一方で、本質的には迷惑行為のはずなのに、皆が同じスタイルを取るようになったことで見過ごされているように感じるのが、歩きスマホです。歩みが遅いのはまだしも、正面で対峙するとぶつかりそうでおっかない。けれど、たいがい相手はすんでのところで気づく。だから問題がないし、誰にも迷惑をかけていないという認識になるのでしょうか。
違うでしょ。スマホに意識が向いて周囲を見ていないそっちに対し、衝突を回避する行動をこっちにさせた時点で迷惑が成立しているんじゃありませんか? そんな正論を常に準備しながら駅構内を歩くのも、なかなか気疲れします。電車慣れしている方は疲れないのかな。
海外では、「人に迷惑をかけてはいけない」ではなく、「人に迷惑をかけられたら助けなさい」という教えになるそうです。美しい正論のように思うけれど、迷惑が人の手を借りなければならないほどのピンチなら、そりゃ助けますよね。けれど僕が電車界隈で感じる迷惑は、何かちょっと確実に違うものです。違わないのかな?
文句ジジイですみません。すべて僕の独り善がりならいいんです。定期的な電車利用もそろそろ終わりそうだし。

どちらも譲らす、拳骨で殴り合っているみたい。

この文章をAIが読んだら

『生きる言葉』というタイトルに目が留まった、俵 万智さんの新書。さっき調べたら同い年とわかって、急に親近感が湧いたりしました。とは言え、短歌に詳しいわけではありません。ただ、基本31音で表現する奥深い言葉のセンスを知りたくて、大ヒット作の『サラダ記念日』以来の著書を読ませていただいた次第です。
中でも特に興味深かったのは、AIに関する章。すでに短歌を詠むAIが存在していて、上の句を入れると数秒後には数百種を出力するそうです。また、一定のお題を出すと、AIなりの短歌を詠み上げるらしいんですね。それが必ずしも無味乾燥な作品にならないのは、蓄えた膨大なデータをAIが日々学習しているから。鋭い歌があると、俵さんは感心していらっしゃる様子。
こういう話を聞くと、途端に心が沈みます。感性ありきの短歌の領域すらAIに侵されるなら、僕など早晩お払い箱になるんじゃないか? いやもう、本当に怖い。しかし俵さんは、言語学者の言葉として、次のような考えを提示してくれます。
「AIが書く小説がはやると人間の作家が職を失うように思うのは、生産に焦点を当てるから。生産だけならAIも人間も同じ。ただし人間はマシンではなく、自分の内側を掘り下げたものが作品に現れることをおもしろがれるし、それ自体を作品以上の主産物にできる」
ちょっと安堵しました。もちろん、自分の内側を掘り下げて書いた作品が人様によろこばれるものでなければ、大量生産が得意なAIに敵わないのでしょう。ですが俵さんは、こうも書いてくれています。「AIが1から100を生むのを横目に、自分は0から1を生みたいと思う」。同級生の心強い言葉に涙がこぼれそうになりました。
その本を読んだ後、ある電話取材でAIの話題になり、「タムラさんも使ったほうがいいですよ」と勧められました。そうですねと流しておけばよかった。なのに短歌AIの話を披露し、この取材だってAIに取って代わられる日が来るかもしれないと、いささか拗ねたように応じてしまいました。黙っていたら気づかれなかったのに。いや、AIの実力を知っている人だから、やがて来る早晩をすでにカウントしているかもしれない。
この文章をAIが読んだら、悲哀と皮肉を漂わせる短歌を詠むんだろうな。不安を抱く当事者の僕には、到底無理な芸当です。

折れたのか、伐られたのか。剥き出しのままの傷口に古い叫び。

やがて昭和にも

機会があれば、平成生まれの人にたずねています。昭和をどう思うかと。ミド昭和生まれの僕なら、ひとつ前の元号の大正は、歴史の教科書や小説の中にだけ存在する世界に感じるんですね。その線でいけば、平成の人も昭和に対して同じような感慨を抱くんじゃないかと。
ところがこの質問、聞いておいて何ですが、今のところパッとした答えが得られていません。つい先日の平成8年生まれもそうでした。「特に古いとも思わないし、大きな違いも感じていない」のだとか。ふむ。
平成の人は、元号で何かを区別する意識が薄いのだろうか。どうなんだろう。実は僕にしても、年月を記載する場合は基本的に西暦を使うので、元号意識が強いわけではありません。けれど時代をまとめるなら、元号の幅広さを利用したほうが納得しやすいですよね。
それ以前に現時点の令和では、昭和の人と平成の人の混在率が高く、元号による文化や社会の違いがはっきりしないのでしょう。だからパッとした答えが返ってこないのは止む無し。でも、今のおじさんやおばさん、あるいはおじいちゃんやおばあちゃんは、確実に昭和生まれでしょ。そういう人たちの感覚に触れて、昔を感じたりしないのでしょうか。
僕の期待は、昭和は古い時代という認識を持ってもらうことなのです。まさしく歴史の教科書的な世界として。そうして明確な違いを見出せれば、きっとたずねてみたくなるはず。「昭和ってどんな時代でしたか?」と。
そこでようやく、前半の戦前・戦中・戦後は知らないけれど、高度経済成長期の世相や、その果てにバブルを迎えた社会の浮かれ気分など、僕の体験談を語る機会がやってくる。こっちから先に切り出すと、ただの自慢話になりますから。
その語りたい欲求は、聞きたい欲求と対になっています。大正の人にも、明治の人にも、当時の空気感を教えてもらいたい。そういうチャンスは確実に少なくなっていく。
慶応四年に生まれた方が亡くなったのが、1977年の今日。慶応は江戸時代最後の元号だったので、その方をもって江戸時代生まれの全員がこの世を去ったことになったそうです。江戸時代のリアル、聞いてみたかったな。いや、生まれた年に明治の改元があったから、その方は江戸時代の記憶がないのか? 同じ難しさは明治にも大正にも起きて、やがて昭和にも発生するのでしょう。よければ、早い内に聞きに来てくださいね。

一方で桜は、まだ蕾が固い様子。

ジョギングだから

ランニングの話題が久々なのは、前回走ってから間隔が空いているという理由しかありません。例によって時間が取れなかったわけではなく、ただし予定を確定しきれない雑事に迫られていたのは事実。あと、寒すぎて部屋を出たくなかった弱気も証言せねばならないでしょう。冬場のほうが脂肪の燃焼効果が高いのに、もったいない。
要は気持ちが向かなかったわけですが、最たるところは、ペースが戻らない情けなさでしょうか。気温が高めの秋にも書いた覚えがあるけれど、自分で決めた最低ラインに届かなくなってきました。気温が下がればと期待して、年末年始は若干持ち直しそうになったものの、それ以降は……。
そもそも時間など気にしなくていいのです。もはやマラソン大会に出ることはなく、いわば健康維持が目的だから、体を動かす機会を得るだけで十分。なのに、それまで守ってきたペースを堅守したいと思ってしまうのは、いつまでたっても夢見勝ちだからなのでしょう。
何を夢見るかと言えば、まだまだ伸びるという願望です。たとえば野球は、時間がかかっていても、それなりの上達が実感できているんですね。我が人生で今がいちばん上手いと豪語できるくらいに。ならばランニングも、せめて現状維持は果たせるはずと期待するのですが、脚力なのか心肺機能なのか、あるいは全部か、とにかくかつてのスピードが出なくなりました。
背負っているものや運動レベルはまるで違うけれど、キャリアを積んだアスリートにも似たような現象が起こるそうな。伸び盛りを経てピークに達した後には、萎み盛りの時期が訪れる。嫌な表現だけど、それは誰も避けて通れないみたいです。
そこで決めました。今日から僕の走りは、ランニングより運動強度が低いジョギングと呼ぶことにします。ジョギングだから、速くなくてOK。そう自分に言い聞かせるこだわりが、ペースへのそれより意味がある気がして。アプリも察したのか、最近は過去記録との比較を表示しなくなったし。
何にせよ、面倒臭い負けん気に支配されている自覚はあります。歳を重ねるほど我が強くなっていく母親譲りなので、それは変えられないかもしれません。

梅、散り頃。

4年に一度

始まりは紀元前9世紀の古代ギリシャ。当初は、太陰暦で重要な周期とされていた8年に一度、全能の神ゼウスを崇める競技祭として開催。しかし8年は長かったのか、やがて8の約数の4年周期に。また、戦争が絶えなかった地域で、定期的な停戦期間を設けるため、4年に一度になったという説もあり。1896年から続く近代オリンピックの開催年は、そうした伝説的な故事に倣ったそうな。
そんなわけで、日本時間で本日の早朝に行われた閉会式を持って、ミラノ・コルティナ2026冬季オリンピックは終わりを迎えました。日本で盛り上がったのは、やっぱりフィギュアスケート界隈でしょうか。個人的には、若い世代が活躍したスノーボード方面がおもしろかったです。骨の2~3本くらい折れる覚悟で大技に挑むらしいじゃないですか。治癒力が低下した大人にすれば、どんな勇気なんだと恐ろしくなります。
例によって大会前に注目されたのは、メダル獲得の期待が高い競技と選手。そして、競技後に多くの話題が伝えられるのは、メダルを獲得した選手。それゆえ、たとえば『りくりゅうペア』などは、二人の出会いから今回の金メダル獲得までの経緯が紹介されることで、彼らの演技や関係性がひときわ美しく見えてくるわけです。
そんなストーリーに涙腺を刺激されながら、ふと思いました。この4年間の二人のこと、何も知らなかったのに泣くなんて、無神経にも程があるんじゃないかと。あるいは、同じフィギュアの女子シングルで銅メダルを獲った選手の4年前は13歳で、おそらく一般には知られていない存在だったはず。にもかかわらず日本代表になれば、いきなり勝手に期待する。
また一方では、おそらく今日を境に、冬季オリンピックの盛り上がりは一気にしぼんでいくでしょう。それがもたらすのは記憶のリセット。だからこそ次大会が始まれば、今大会の様子などすっかり忘れ、阿呆のように世紀の祭典を楽しめるのかもしれない。
それに必要な歳月が4年であることを、もしかしたら古代ギリシャ人は知っていたんじゃないだろうか。そんなことも思ったりしました。
だから? という話です。ただ、4年ってけっこう長いなあと。中学生は高校生になっちゃうしね。僕の4年後は67歳。いろいろ忘れやすくなって、すぐに阿呆になれそうだとしても、あまり先を見通したくない気分になります。

夕焼けの眩しさがきつくなったなあと思って。

読書好きの子供たちに

「スウェーデンの教育が紙に回帰」というのは、例によってぬるっと現れたネットニュースの見出しです。こういう文言を目にすると、古い世代は「だろ?」とか、口元を歪めたいやらしい笑みを浮かべたりするんじゃないでしょうか。まぁ僕も、そんな感じで目を留めたのだけど。
自分の前では数日前に出現した記事ですが、ニュース自体の発信は2年ほど前。ならば現在はどうなんだろうと探ってみたら、新しい話はあまり入っていないようです。個人の評論などを読んでみると、この件が注目されたのは、これまたネットあるある的な見出しのひとり歩きに原因があったらしいんですね。やはり何にせよ、二次以上の情報の扱いには注意が必要ってことなのでしょう。
政権交代した新政府が、子供一人一台のタブレット学習を改める法案を出したのは、どうやら事実。その理由が、スクリーンタイムの増加に伴った学力低下の懸念というのは、間違いじゃないが、それだけでもないらしい。「教育が紙に回帰」は、教科書をアナログの本に戻すということだけど、デジタルを完全に撤廃するわけでもないそうな。
ただし、様々な調査結果から長文の理解は紙の読書のほうが優位なので、本を読む機会を増やそうとしていること。ならびに脆弱になった各学校の図書館を、蔵書が豊かな環境へと改善するというのは、おおむね良いことじゃないかと思ったりします。
そしてまた、見出しがひとり歩きしたのは、日本の文部科学省が2019年頃から推進し始めた、「児童・生徒一人一台に学習用端末」を始めとする『GIGAスクール構想』が影響したとも伝えられています。デジタル後進国がようやく重い腰を上げたのに、IT先進国のスウェーデンが逆行するような施策を取ったとなれば、そりゃ慌てるだろうと。僕にすれば、今の子供たち全員にタブレットが行き渡っていることのほうが驚きですけれど。
いずれにしても、大人は子供に公平な教育機会を与えるのが使命ですよね。その観点に立てば、デジタルとアナログを対立構図に持ち込むのは時代錯誤も甚だしい。今もって読書は印刷物オンリーの僕にしても、新刊情報などはネットで探ったりするし。
それはそれとして、最近は本も価格高騰していませんか。読書好きの子供たちにまっさらの本が公平に行き渡るか、ちょっと心配になったりします。紙の教科書だって、お安くないんでしょ?

本日の注目はクレーンの下。外周の幕がはがされ始めました。完成が近いのかな。

本物でも偽者でもなく

「それの何が?」でした。先日報じられた、日本の対米投融資の第1弾に人工ダイヤモンド事業が挙げられたニュース。で、「人工ダイヤの何がいいの?」と思ったわけですが、後々調べてみると、浅はかな僕が頭に描いた宝飾系ではなく、工業系での有効活用が目的だったようです。不純物の含有率によって半導体もつくれるそうな。
だからちゃんと調べてから考えろって話なのだけど、それでもニュースを目にしてからしばらくの間は、人工ダイヤの何がいいんだ? という僕の中の曇りはなかなか晴れませんでした。
自分でダイヤを身につける意欲は、これまでもこれからも湧かないでしょう。ただ、何かの間違いで手に入れるとしたら、そりゃやっぱり天然だけが本物。人工や合成などあり得ないという、うがった見方をするに違いありません。
そんなさもしい自分を引っ張りださないためにも、高級高価な類と距離を置けるオレは賢い。そんな自慢に酔いかけて、ハッとしました。あれはどうなんだ? それも人の手によって本物らしい加工がされていたんじゃなかったか?
端折って説明します。3年前の立春に出会い、分不相応な価格を含め、今も一人悦に入ることができるギター。その木材の一部に、数十年の経年変化でしか生み出されない音を出す特殊な化学処理が施されています。それも科学による名器復元の試みなら、人工ダイヤを嗤う資格などないのではないか?
勝手に立論して反駁しますけれど、そのギターの音色を初めて耳にしたとき、とにかく魅入られてしまったのです。化学処理の件は後に知り、今はこんな技術があるんだと、いたく感心しました。
けれど、数十年の経年変化をたたえたギターこそが本物と信じて疑わない人にすれば、僕のギターは紛い物なのかもしれません。ただ、仮に指摘されても、僕はさして気にしないでしょう。なぜなら、負け惜しみではなく、わずか3年ながらともに過ごしているそのギターとは、本物でも偽者でもない真実の時間が積み重なっているから。
要するに、誰にとって良いか、ですよね。だから本日の教訓は、自分の知識や経験だけで「それの何が?」と揶揄するのは、心の貧しさを晒すようなもの、ということでしょうか。アメリカでの結婚指輪は、半数以上が人工ダイヤらしいですよ。当人同士が幸せなら、それに勝る輝きはないって話です。

数日前の空。冬とは異なる気配が漂い始めたような。

自分の話など世界でいちばんつまらない

会話と対話。「スタンスとして重きを置くべきは、より良き聞き手になること」は昨日のテーマでした。その一方、麗しい会話や対話には、より良き聞き手と対になる、より良き話し手が必要です。が、僕はより良き話し手になるための術を知りません。困ったもんです。
より良き聞き手になるのが職業的な使命だったから、逆方面の技を磨こうとしなかった。などと言えば、さぞ上手に聞けるんだろうと思われそうですが、そこはツッコまないでください。今も切磋琢磨と試行錯誤の最中なので。
ただしインタビュー取材では、より良く話してもらうための質問を投じなければなりません。そのタイミングは話し手になるじゃないかと、これまたツッコまれそうですが、質問は別物。相手の言葉を引き出すための呼び水に過ぎないのです。それゆえ、可能な限り簡潔な文言を用意しなければならない。そのスキルを獲得するのが、インタビューでもっとも難しいんじゃないでしょうか。
そんな習慣を身につけてしまったから、より良き話し手になることができなくなった。そういう分析も成り立ちそうだけど、すぐにでも書きたい衝動に駆られる興味深い話を耳にしているうち、こう思うようになったところがあります。自分の話など世界でいちばんつまらないと。何よりも、他者の好奇心をくすぐるような逸話や成果を持ち得ていない不覚が、自分発信の扉を塞いでいるのかもしれません。
発想や記憶を発言に置き換える瞬発力の鈍さも実感しています。取材であれば、聞くべき質問の準備ができるし、想定外の返答を受け入れる余裕も持てる。しかし、話題が方々に転がる会話ないしは対話では、持論のようなものを上手に語れません。1回持ち帰って文章に改められたら、もっと気の利いたことが伝えられるのにと、常に後悔しきり。
そんなわけで、自分がより良い話し手になれない理由を書き出してみました。それらを改善できたら、あるいは僕が話を聞かれる側になったりするのだろうか。いやいや、人には得手不得手があるので、ここまできたら得意を伸ばし続けたほうが無難でしょう。
いずれにしても、「アイツ、話してもつまらない」と嫌われないよう、経験値を盾により良き聞き手を意識していきます。口が滑るような呼び水を撒くので、思う存分話してくださいね。

何にも動じず、のんびりしてるんですよね。彼らにも地元民の意識があるのかなと思って。

相槌は無音で

会話は、気軽なお喋り。言葉を交わし合った果てに具体的な到達点を見つけなくてもよく、他愛なき情報の交換をしながら、ほどよい関係性を保つのに適しているもの。
対話は、相互理解を図ったり、自分にはなかった視点の発見など、明確な目的を持って行う話し合い。互いを尊重する姿勢が維持されると、本音の部分が浮き彫りになってくるもの。そんなわけで、日本語では一字違いなれど、似て非なる意味になります。
唐突ですが、気楽な会話でも、相手をよく知ることができる対話のようなコミュニケーションをしたいと思っている方がいるなら、僕の経験談からよさげな方法をお伝えします。
会話であれ対話であれ言葉のキャッチボールになりますが、スタンスとして重きを置くべきは、より良き聞き手になることだと思います。これに賛同されるなら、相手が話している間は、こちらから一切声を出さないよう心掛けてみてください。
「声に出して相槌を打たなければ、聞いていないように思われるんじゃないか?」
そう、そこが不安になりますよね。だから反射的に「なるほど」とか「ほお」といった感嘆詞の類を相手の発言に差し込みたくなる。それが礼儀と思ったりもするから。
以前の僕もそうでした。ところが大革命に晒されたのです。きっかけは映像の仕事。インタビューが好きなので、収録でも慣れた手法で発声相槌をしていたら、ディレクターに諭されました。
映像では、話し手をとらえた場面で他者の声が被ると、集中して見せたい意図がぶれるんだそうです。なおかつ、不要な音声を切る編集の手間も増える。だから相手が話しているときは、黙って相槌を打ってくれと。
最初は怖かったです。話に興味がないように取られるんじゃないかと思って。けれど黙っていても、「一言一句逃しませんよ」という意識を醸し出せば、相手は話し続けてくれるものなんですよね。
それは、相手から目を逸らさないようなフィジカルな体じゃなくてもいいみたいです。その一件以降、メモを取り続けるインタビュー中も無音相槌を意識するようになりましたが、ノートに視線を落としたまま自分の言葉にペンを走らせている様子を見ると、相手は「ちゃんと聞いてくれてるんだ」と安心するらしいのです。
つまるところ話す側は、聞いてくれるから喋る。そしてついには、うっかり本音を漏らしたりする。だから誰かを深く知りたいなら、ひたすら聞くのが大事。できれば相槌は無音で。一度試してみてください。いつもより達成感のある雑談ができるかもしれません。

やっぱり孤高の気配が強いと思いませんか?

ブランブルケイメロミスの日

違う話を思いついていたのに、日付ネタに引っ掛かりました。
オーストラリア政府は2019年2月18日、グレートバリアルーフ北端の固有種であるブランブルケイメロミスの絶滅を正式に宣言。長期調査による絶滅理由は、海面水位の上昇によるその小さなネズミの生活圏喪失、または直接的な溺死。人為的気候変動によって絶滅した最初の哺乳類とされたそうです。
さておき、昨年の最後に買った本のタイトルは『アフター・サピエンス』。人間の文明活動など及びもしない自然の理で環境が厳しくなっていく地球で、人類という種が生き残る可能性が紹介されている一冊です。
人類がまず始めるべきは、エネルギーを大量に消費する脳の小型化。人類が他の生物より大きな脳を持ったのは、生き抜く上で不可欠だった文明を築くのが目的だったと信じたいですよね。ところが実は性淘汰。つまり、蓄えた知識を喋ることで異性の注目を集め、優れた子孫を獲得するために脳を大きくした、という説があるらしいのです。これ、思い当たる節がなくもない。
脳を小さくすれば、食料自体も確保の方法も変わってくるし、環境変化に対応できる様々な形態の新人類へと生まれ変われるかもしれない。その考察例として、マントヒヒみたいな草食人間や、大きな翼を持った飛行人間。海洋進出を果たすクジラ人間などがイラストで示されます。正直なところ、どれもなりたいスタイルではないけれど。
それでも生物の命題である種の保存を行うなら、知能の放棄が絶対条件。文明の構築から手を引き、自然環境に身を委ねない限り人類に未来はないと。どう思います? できそうにないですよね。
そこで、ブランブルケイメロミス。人間のような知能を持たないであろう彼らは、生活圏が水浸しになっていく理由を知らないまま、静かに種の歴史を閉じたんじゃないでしょうか。それを人間は、まるで神様みたいに「人為的気候変動によって絶滅した最初の哺乳類」と定めた。そんな記述を読み返せる脳を捨てれば、ブランブルケイメロミスは今も平和に暮らしていたんじゃないだろうか。そんなことを思いました。
自虐的な締めになりますが、地球上でこれまでに誕生した生物種の絶滅確率は99%以上だそうです。

仙台堀川という名前に惹かれて撮りました。両岸は桜なのかな。