その瞬間、予兆を軽んじた自分を呪いました。自転車で転倒。何かもう、体より心が痛い……。
事故の概要は次の通り。壁伝いに左折すると神社の参道へ向かう小さな丁字路。曲がり角の右端に日傘のご婦人。左の壁側には脚立を使って作業中の植木屋さん。その丁字路に進入しようとして、はっきりとわかる段差を目にしました。そういう場面では、車体にかかる負担を小さくするため軽く前輪を浮かせる癖をつけています。特別なテクニックというほどではなく。
そうして癖に任せて丁字路に入った刹那、僕の眼下に飛び込んだのは前輪が見当たらない自転車でした。
突然のピンチに襲われると、脳はコンマ数秒の間にも危機に陥った理由を記憶の中から探り当てようとします。その日の乗り始めに前輪から奇妙な音が聞こえていた。それを僕はサスペンションの軋みだろうと高を括った。そして脳は、その何気ない誤解がこの事態を招いたという最終報告を伝えてくる。
どんな誤解があったかを知ったのは、前方に放り出され地面に叩きつけられたあと、キレイに抜け落ちたらしい前輪を視野の端に収めたときでした。
僕の自転車の車輪には、手軽に外せるようクイックリリースレバーというものが備わっています。そのレバーに緩みが生じていたらしく、相応の衝撃が加わればいつ脱落してもおかしくない状況だったらしい。そんな実情を前輪は1時間以上も前に、コキコキという音で伝えていたのでしょう。
胸から落ちたようです。クルマが入れない道なので、しばらく仰向けになりながら深呼吸を繰り返し、肋骨がいってないか確かめました。たぶん大丈夫。そのうち、両膝、両肘 両掌に痛みが浮上。受け身の代償です。「何をやってるんだオレは」とつぶやきながら上体を起こしたら、曲がり角の右側にいたご婦人の姿はなく、植木屋さんは作業を続けていました。転倒時には相当な音がしたはずなのに放っておいてくれたのは、僕の無事を確認したお二人の優しさと受け止めました。
運気が僕にもあるとしたら、どうやら最近は下降気味らしく、こうして情けないトラブルに見舞われると、どこまで下がるのかと悲しくなります。けれどすべてには何かしらの予兆があったのかもしれない。たとえばそれは、降って湧いた青天の霹靂的な事象にも必ず存在していて、常に見逃さず的確な判断で対処しておけば、あるいは霹靂自体を遠ざけられたのかもしれない。
そうなんだろうな。自分の緩みに気が付かなかったせいなのかなあ。そうとは言い切れないことも多いと思うんだけどな。
あらゆる事柄を関連付けると本当に心が折れそうなので、それはそれ、これはこれと切り離すことにします。今もっとも望むのは、様子を見ている胸がただの打撲で済むこと。頼む肋骨! 君は折れないでいてくれ。

最近は様々な形の雲が現れ、季節の変わり目を伝えているような期待を覚えるのだけど。
