さよなら主観の塊

きっと他人にはどうでもいい主観と客観のせめぎ合い、その続編。オートバイを手放しました。この件に関しては冷静沈着な客観も心から同情してくれているはずです。それほどにオートバイは、僕にとって主観だらけの存在でした。ゆえに泣き言ばかりつぶやきそうなので、要点を絞ってお伝えします。
おそらく1972年製の900㏄。買うと決めたのは28歳のときだから、その時点で18年落ちの中古車だったけれど、いわゆる逆輸入の希少車なので価格は分不相応。それでも僕のオートバイの理想形だったので必死で手に入れました。
そうして約30年。言うまでもなく、たくさんの思い出があります。フリーランスの物書きになってからは、このオートバイを持っているだけでいくつもの仕事を得ました。そんなわけで40代の半ばまではよく乗っていたのです。
少しずつ距離ができていった最初の理由は、二輪の駐禁取り締まりが異様に厳しくなったこと。街中を走るのが好きだったのに、束の間すら止めておくのが難しくなり、かと言って二輪専用の駐車場を増やしてくれるわけでもなかった。これは責任転嫁かもしれません。
最大の理由は、古い型だったので調子の維持が次第に困難になっていったこと。今の町に住んでからは、一度も動かさないままになりました。完全修復させようと何度も思ったのに、結局放置が続いたのは僕の至らなさという他にありません。
失いたくなかったのは、オートバイ乗りという自負です。そんなものは何の役にも立たない、まさに主観の塊です。わかってはいたのだけど、このオートバイを手放せば自分の中に大きな穴が開くような気がして怖かった。
しかし、さすがに放ったままはかわいそうだし、以前より希少性は高まっているだろうから、これを求める人に譲ったほうがいいかもしれない。そんな考えに変えたのは、主観と客観の間にいつの間にか現れた第三の自分でしょう。中立性を主張するこいつはたぶん、未来から来た年寄りのオレだと思っています。
それにしても、凝り固まった大きな主観を体から離せるなら、昨日書いた蔵書の死蔵率検証なんて軽いものでしょう。しかし決断の反作用で重い喪失感を宿してしまう僕は、本質的に断捨離の思想を理解しきれない人間だということがよくわかってしまいました。

さよなら僕のオートバイ。

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