如何ともし難い敗北感

おそらく物書きは、くどい思考の持ち主じゃないと務まらない気がします。多くの人にとってはどうでもいいことを拾い上げ、執着し、自分なりの答えを見つけ出すまで何度でも考え、その自問自答を文章に表す。もっとも重要なのは、その文章が他者の興味を引くものか否か。つまりはおもしろいかどうか。この判断に行き着くと、僕は落ち着かなくなります。オレはただ単純にしつこいだけのまがい物なんじゃないかと不安になるから。
というような前置きを展開してつぶやくのは、毎年この時期になると取り上げる冷房の話。もはや不快をはるかに超え、深刻な健康被害に見舞われかねない暑さですから、四の五の言わずエアコンのスイッチを入れろよってことなんですけれど、特に使い始めは罪悪感や敗北感に襲われるのも例年通りです。
その罪悪感や敗北感の正体は、自分なりに分析済みなんですよね。つまるところが貧乏性。ないしは実質的な貧しさの経験が源にあるわけです。貧しい経験と言っても、かつては真夏でようやく30度を超える時代だったとか、だからクーラーなしでも耐えられる家庭が多かったという、いわゆる横一線の世代の記憶から来ているので、とりわけ引け目を感じなくてもいいことではあります。
しかし、そんな過去を持つ世代が少なくなっていくと、そうではない世代からはただのケチに扱われていくんじゃないかと思うんですね。電気代を節約するあまり室内で熱中症になるなんて信じられないと、本気で呆れられるようにして。
これはあくまで推論ですが、酷暑を迎えて高齢者の熱中症搬送が増えるのは、エアコンを使う罪悪感が原因になっている気がします。自分の母親がそうだから。窓を開け放てば涼しいのよとか言うんですよね。加齢で温度変化を感じ難い体になっているんだよと説明しても、どうもうまく伝わりません。水分補給に関しても、彼らが若かった頃には、そうした概念自体がなかった。だからそのあたりは、物書きのくどさを活用して繰り返し伝える他にないですね。
それらもろもろ作用して、僕は冷房の使用に如何ともし難い敗北感を覚えるのです。そうではない世代にすれば、役に立たないお伽噺に聞こえるかもしれませんが。

いやまぁ、梅雨入りのことなんか忘れるくらい暑いけれどね。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA