20分くらい早く待ち合わせの場所に着いてしまい、周囲に時間つぶしができそうな場所も見当たらなかったので、そこでただぼうっとすることにしました。幸い日差しも強くなかったし。
ふと斜め右方向に目をやると、60代半ばと思しき女性が10メートルほど先に立ってスマホを耳に当てていました。母親もそんなふうに使えたら僕ら兄弟も安心なのになあとか、でもアラ・ナインティではやっぱり無理なんだろうなあとか、そんなことがつらつらと頭を過りました。いやいや、60代半ばなら自分と大して離れていないのだから、スマホくらい存分に使いこなせて当然だよなと、頭に過ったことをすぐさま打ち消したりして。まあ、他にやれることがないときには、そんなふうにあれこれ思考が巡るわけです。いずれにせよ、最近は年配の女性を見かけると、およそ母親とつながってしまいますね。
その女性がスマホを下げた瞬間、ばっちり目が合ってしまいました。見るともなく見ていたつもりなんですけど。すると女性が手招き。周囲に自分以外誰もいないのは明白だったので、「僕ですか?」みたいな芝居じみた素振りはせず、すっと近寄ることにしました。
「ちょっと手を貸していただけませんか? その段差が越えられなくて」
なるほど足が悪いのかと気付けたのは、加齢で膝が曲がった母親のおかげでしょう。言われた段差は、たぶん15センチもない高さです。それでも足を上げるのが難しい方もいらっしゃる。それを知らなかった目の前の建物は、もはやバリアフリー有史以前の歴史的建造物と呼ぶしかないでしょう。
どうしたらいいですか? とたずねたら、女性はすっと差し出した左手で僕の右上腕部をつかみ、相応に体重を預け、不自由そうな右脚を段差に持ち上げました。その手慣れた一連の行動をそばで見ていて、きっとこの人はいろんな場所で誰かの助けを借りているのだろうと推測したのです。そして、手助けを求めることを特に恥じるでもないその姿勢が僕には清々しかった。
たとえば、あらゆる建物や設備がバリアフリー化されても万人に対応できるはずはなく、そこで救い救われる場面をつくるのはやっぱり人なんだなあと、15センチの段差に気付かされました。僕にしても、その高さに難儀する日が来るかもしれないんですよね。

静謐な空間。トイレに続く通路。
