蒸気機関車と幼い我が子

1969年9月30日、総武本線の無煙化達成。無煙化とは蒸気機関車の廃止を指していますが、こんな史実に触れると感慨深くなります。それは、こんな思い出に端を発しています。
僕が4歳――たぶん1966年くらいまで住んでいた家は、総武本線のすぐ脇に建っていました。総武本線というのは、東京駅から千葉駅を経由して銚子駅まで伸びる路線です。僕の家があったのは、さらにドメスティックな話になりますが、津田沼駅の少し手前でした。ただ、その家で過ごしたことは、千切れたセロテープの端ほどしか覚えていません。
けれどひとつだけ、映像に近い形で残されている記憶があります。家のすぐそばの線路に蒸気機関車が走っていました。D51かC61だったかはわかりませんが、とにかく大きな黒い塊で、貨物車を引っ張っていたはずです。
日本中の鉄道で電化が急がれていた時代ですから、蒸気機関車が走る本数も時間もすでに限定的だったのでしょう。年子の弟と僕はそのタイミングを熟知していて、蒸気機関車が来るたび線路脇に立って手を振りました。そんな健気な兄弟の存在に気づいた車掌さんが、通り過ぎる刹那お菓子を入れた紙袋を放り投げてくれたのです。そうした互いに名も知らないささやかな交流は、僕がその家を去るまで続きました……。
……などという牧歌的で郷愁に満ちたエピソードが本当にあったのだろうか? そんな疑いを持つようになったのは中学生くらいだったと思います。何しろ上記のような動画的記憶には、蒸気機関車を見送る兄弟の背中がシルエットになって映り込んでいるのです。現代の幼子であれば、繰り返し見るスマホのムービーが自分の記憶にすり替わることがあるかもしれません。けれどこれは昭和中期の話。だから僕の記憶は、自分の都合のいいように編集したものなのでしょう。母親から繰り返し聞かされた逸話をもとにして。
そんなわけですから、総武本線に蒸気機関車が走っていた事実に直面するたび、いまだ手応えはくたびれたクッションをつかむみたいに不確かですが、あれは噓ではなかったんだと奇妙な安堵感を覚えるのです。
明日は、蒸気機関車と幼い我が子のエピソードを語った母親の誕生日。本人は覚えているのかな。1年の中でも特に好きな9月が終わっていきます。

前に同じ場所で見た柿が色づいていました。渋くなければひとつくらい……。

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