昨日のここで『ゴジラ』に触れましたが、身長が50メートル(後々100メートルになるそうな)もあるモンスターが突然都会に現れたら、そりゃもう確実にパニックが起きますよね。「迫りくる恐怖。逃げ惑う人々」みたいに。しかし物語は、最終的に怪物を退治する主人公をフォーカスして進んでいきます。ビルの下敷きになった群衆や、蹴散らされた戦車を操縦していた兵士の生死にいちいち構わず。そうでないと完結にたどり着かないから。もちろん主人公は、これ以上の犠牲を出さないためにあらゆる知恵と勇気を絞り出して戦うわけですが。
知識も経験も乏しい子供の頃は、何があっても生き延びる主人公の視点で物語に没入することができました。けれど大人になるにつれ、誰かの人生に光が当たるのであれば、それ以外の人々の人生に影が差すという演出の基本を学びます。その観点で映画のパニックシーンを見ると、自分は逃げ惑った末に絶命を余儀なくされる群衆の一人になるかもしれないと、そんな諦めを覚えたりもするんですね。何しろ主人公になれる確率は圧倒的に低いし。
とは言えフィクションに向き合うとき、たとえば『ゴジラ』の上陸一歩目で踏みつぶされるキャストにばかり感情移入していたら、もうぜんぜん楽しめません。そんなところに意識を傾けるならどうか見ないでくれと、僕が制作側なら呆れを押し殺しながら懇願します。注目してほしいのはそこじゃないでしょうから。
しかし現実世界でパニックが起きれば、誰をフォーカスするではなく、あるいは誰もフォーカスされないままの無残が実現してしまう。どんなに不意を突かれても冷静に対処するアクション映画のヒーローに憧れようと、筋書きのないリアルな混乱現場で無軌道に暴れるモンスターには手も足も出なくなってしまう。となれば僕などがパニックに放り込まれたら、やはり絶望的な確率で、身がすくんで動けなくなる名もなき群衆の一人になるんだろうと。
そんな嫌な妄想に迫れられる事件がこの世界にはあります。モンスターを生み出さないのが正しい社会であるべきでも、それが潜んでいると疑って過ごすべきなのが現実社会というのは、なかなかに気落ちしますね。

都心にも小さな森はあるね。
