準備という言葉が頭を過るとき、最初に紐づくのは童話の『アリとキリギリス』です。生命の危機に晒される冬に備え、他の季節で食糧集めに奔走するアリ。その生真面目さを嘲笑うように日々気ままに暮らすキリギリス。だいたいこんな話でしたよね。
ただし結末は時代とともに変化しているようです。昔のアリは、冬を迎え食べるものがなくなったキリギリスを「自業自得だな」と見捨てました。僕はこの終わり方に恐怖のメタファーを見たのですが、にもかかわらず先行き不透明なフリーランサーになったりしたので、今もって人生の冬の到来に怯えています。
さておき、ある意味で見殺しにしたアリの態度が厳しすぎたのか、近年ではアリがキリギリスに食料を分け与えるオチになったみたいです。「それってどうなの?」と、旧キリギリス派の僕は憤慨します。アリの優しさにつけ込むズルさを子供に教えていいのかと。あるいは真面目に働けば損するだけじゃないかと思わせていいのかと。いやまぁ、キリギリスのくせに正論を吐くなって話ですけれど。
え~と、つぶやきたかったのは、準備にかかるコストです。キリギリスは生粋の楽天家なので、今日の楽しさを優先して生きるわけですよね。つまり彼のコストは現在にだけ集中する。対するアリのコストは、今日の楽しさよりも将来の安定に向けられます。集団で生きる昆虫なので、そのコスト計算には多くの個体の労力も含まれるはずです。
それを念頭に置くと、中には悲観論者のキリギリスがいたとしても、およそ単独行動の彼らの生態上または慣習的に、アリのような準備はできないのではないかと……。
そんなことを考えたのは、台湾で一昨日起きた地震の被害状況でした。すぐさま様子を伝えたテレビのニュースは、地方らしき町の、いかにも古そうなビルが倒壊する姿を映し出しました。一方、しばらくしてから見た都市部は、地震の影響がほとんどなかったそうです。震度が違ったのかもしれません。けれどおそらく、耐震・免震等々、そこには地震に対する準備の違いが現れたのだろうと思いました。
アリとキリギリスが迎える冬にしても、僕ら人間が被る自然災害にしても、それは避け難くやってきます。だから準備が不可欠なのは正論中の正論。しかし、そのためのコストを払える者とそうではない者の存在を認めると、正論は机上の空論に転じてしまうのではないか。
などとここまで書いて、何が言いたいのかよくわからなくなりました。様々な事情によってできない準備に対して、「仕方ない」以外の救いの言葉はないものかと、そんなことを思っています。

見返して気恥ずかしくなる、Theをつけたくなるほどの観光写真。
