元子供の観点に立つ他にない

男子の成長を祈願するため様々な行事を行っていたのが、旧暦の五月五日の端午の節句。それが「こどもの日」の起源。この日を祝日に定めた1948年7月20日公布の「国民の祝日に関する法律」によると、「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」ことが趣旨なんだそうです。
「いやいや、今時なら母親だけに感謝するとか言っちゃダメでしょ。両親もNG。そもそも、人格や幸福の定義を説明しないまま重んじろだの、はかれだのと文字にすれば他人事みたいになっちゃうのに。結局、いつの時代も大人は子供に対して何もわかっちゃいない」
というような、いつの時代の大人が聞いても生意気に聞こえる発言を、僕が現代を生きる子供だったら、誰にも聞かれない場所でつぶやくかもしれません。え~と、ちょっとだけウソです。ここまで饒舌には語れないですね。大人との会話で対等に渡り合える語彙を、まだ持ち得ていないだろうから。
けれど適切な言葉は知らなくても、10歳あたりともなれば適当な感覚が発達していると思うんですね。何が正しくて何が間違っているか。あるいは正誤を逆手に取って、どうすれば気に入られるか嫌われるかも、10歳なりにわかるようになる。
以上は、へそ曲がりな子供だった僕の持論です。しかし僕だけではなく、元子供だった多くの大人も昔の記憶をたどれば、似たような感覚で周囲を見渡していたんじゃないかと思うのですが、どうでしょう。
何が言いたいかというと、人間の成長過程にある子供も、多くの事柄を感じ取っているはず、ということです。一定の成熟に達した大人と同等か、場合によっては感性のキャパに余裕がある分だけ大人以上に。
ただ、経験に要する時間量が圧倒的に少ないから、論理的な表現方法が身に着いていない。ゆえに感情が先走ってしまう。気持ちが昂って泣くしかできないというのは、そういう状況を指すのでしょう。それを大人たちは幼いと揶揄する。でも、子供がもっとも嫌うのは、幼稚とか子供っぽいと言われることじゃないでしょうか。それは大人になっても嫌だから、人間全般において「幼い」は耐えがたい侮辱に当たるのかもしれません。
すべて個人の意見です。勝手なことを申してすみません。「こどもの日」について考えるとき、子育て経験のない僕は、元子供の観点に立つ他にないなあと思うだけなのです。

この道が真西に向かって伸びていることがわかる瞬間。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA