ゴジラに関する勝手な戯言(1)

勝手な戯言と聞き流してください。ゴジラの話です。映画館に行く習慣がないので、Amazonプライムで『ゴジラ -1.0』を観ました。それから1954年に上映された、すべてのゴジラの原典である第1作目の『ゴジラ』も。
鑑賞後に浮かんだ最初の疑問はこうです。他の国の人、特にアカデミー賞で『ゴジラ -1.0』に賞を贈ったアメリカの人々はこの作品をどう感じるのか?
『ゴジラ -1.0』の舞台は、終戦間近の日本です。ゴジラが襲来する東京は、一部復興が始まっているものの、アメリカ軍による空襲の傷跡が癒えていない荒れ地だらけ。そんなところに銀座の和光ビルよりデカい怪物が現れるわけです。そんな状況に置かれた日本人の心情をどう見るのだろう……。
そう考えた瞬間、別の疑問が浮上しました。そもそもなぜ日本人はゴジラ映画を受け入れたのか? 先にも触れたように、第1作目の『ゴジラ』が上映された1954年は、終戦から9年後。日本人にとって、まだ十分に戦争の記憶が鮮明だったタイミングです。なのに、戦争被害と同様に一瞬にして生活を狂わすモンスターが主役の映画ですよ。なおかつ広島や長崎を彷彿とさせる水爆大怪獣って、「ふざけんな!」と怒っていいはず。にもかかわらず、初代『ゴジラ』は961万人の観客動員数を記録する大ヒット。日本人の僕ですら、その理由がわからなくなりました。
いろいろ調べて、それとなく納得できたエピソードを記します。まずは、共感および同情説。『ゴジラ』のゴジラは、日本の離島近海に太古から生息してきた生物が、海洋での水爆実験で異様な進化と巨大化を遂げた設定になっています。これは、1954年3月1日にアメリカが行った、ビキニ環礁の水爆実験がヒントになっているそうです。その際、実験海域の近くを航行していた静岡県のマグロ漁船の第五福竜丸が被ばくし、大きな注目を集めました。
だから『ゴジラ』は反核を訴える作品だったのかというと、反核にはあまり言及していないんですね。行き過ぎた科学は人を不幸にするという命題は語られていても。
あるリポートでは、ゴジラがわざわざ日本を目がけてきた理由を含み、被爆の苦しみを被爆国の国民同士で共感したかったのではないか、という見解が示されていました。ゴジラは、放射能を吐きながら街を破壊する核の加害者であると同時に、行き過ぎた科学を持った人類による被害者でもあると。特に後者に当時の日本人は同情した。傷んだ者同士が肩を寄せ合わないと、多くを失った戦後を生きていけなかったから。
だとすれば、合点がいくんです。『ゴジラ』ではゴジラを心から憎むような演出がなかったことや、いつか必ず起こる災厄への諦観のようなものも感じ取れたし。
そこでまた新たな疑問。なぜ不条理を日本人は諦められるのか。長くなりますが、これについては明日に続きます。

丁寧に灰色を重ねるのを諦めたような空がいちばん鬱陶しい。こんな天気が続くのか。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA