人生初の給料で買ったのが腕時計。シンプルかつ安価な円形のSEIKOでした。おそらく、社会人となった証に自分で買うことに意義を見出したのでしょう。このSEIKOは約40年の時を経ても、ヘッドだけが机の中に残っています。初任給の買い物という以外に特別な思い入れもないのに。
ふと気づきました。もしやそのSEIKOは、これまでの人生で自ら購入した、最初で最後の腕時計かもしれないと。他に腕時計をしなかったわけではありません。仕事関連で何本かいただいたものの、装着が不慣れだからすぐに外してしまいました。そしてそれらは、極めて不義理ながら行方不明のまま。
僕が腕時計に興味を示せなかった理由はいくつかあります。ひとつは、20歳あたりで一般的な社会人になることを嫌ったから。ただのどうしようもない若気の至りですが、スーツやネクタイに革靴。そして腕時計といった、かつてのサラリーマンスタイルに縛られたくなかったのです。そうして嫌な型を構成するアイテムを遠ざけた。そのせいで、別の型を見つけるのに時間を要してしまうことになるのだけど。
それから、若い方には噂の範疇かもしれないバブル期に、有名な高級腕時計をつける人が異様に増えて、かなり深刻にうんざりしました。彼らは互いの腕時計について語り合っていただけかもしれません。けれど僕には自慢合戦にしか見えなかった。あるいは、身に着けるもので互いを値踏みしているように感じられてしまった。これもまた、ただのどうしようもない貧乏人のひがみと言われたら返す言葉はありません。
けれど、既定の価値の競い合いに参加したい意欲はまるで沸かなかったし、むしろ多くの人々が気づけていない未定の価値を見出せる人間になりたいと思ったんですね。そんな指針を持てたのは、忌み嫌った腕時計のおかげなのだろうか……。
高精度の技術を集約させた機械として、または気分を高揚させる装飾品としての腕時計およびその趣味性を否定するつもりはありません。そこにはまらなかったことで、大きな損をしている可能性も否めないと思っています。いずれにしても、自分なりの価値基準を尊重したい思いの裏に潜む、価値観自体に敏感過ぎる性質が素直さを歪めているのかもしれません。
こういうへそ曲がりを納得させるのは、実は自己顕示欲を刺激する「世界にひとつ」なんでしょうね。そんなものには滅多に出会えないとしたら、初任給のSEIKO?
時の記念日に合わせてこんな話をしてみても、腕時計をつける自分が想像できずにいます。

その奥にこちらをうかがう目。これだけ警戒されたら仲良くなるチャンスはないな。
