仕事に向けた心掛けというものがあるとしたら、「そのひとつ上へ」になると思います。いいこと言い始めそうな雰囲気がありますが、僕の心掛けは健全な精神から生まれるわけではなく、不健全をはるかに超えた憤りの感情に蓋をしたところで、溜め息とともに転がり落ちてくるものです。
で、愚痴です。物書きなどと自称していても、僕が任される原稿の多くは発注主のために書くものですから、根本的に書き手の自我は必要とされていません。ゆえに自ら作品と呼ぶこともありません。それはそれでまったく問題ないのです。プロのライターというのはそういう仕事だし、作品をつくりたいなら作家を目指せばいいのだし。
そんな業務ですから、提出した原稿の修正依頼はほぼ必ずあります。事実誤認があればもちろんのこと、ご自身が喋った言葉を文字で読んでみたら各方面に支障が出るのを心配される場合もよくあるので、それらには真摯に対応します。権限者の好みが反映されるケースも少なからずあります。それに対しても、「ああ、そういうことね」と応じます。
戻ってくる僕の原稿には、およそ赤字が加えられます。極めて少ないときもあれば、大量出血を伴った惨殺状態で戻されるケースも見受けられます。後者の場合は殺意、もとい最初から修正意欲に満ちている気配がぷんぷん漂っています。文字ってのは哀れですね。いとも簡単に改められてしまう宿命を具えている。もしも文字が生まれ落ちた形や意味を一切変えない性質だったら、この世界は今と違った景色になっていたかもしれない。
さておき、事実誤認や誤字脱字以外の修正において、「そっちのほうがいいかも」と感心するような変更依頼を受けたことがほぼありません。我を抑えきれないわけではなく、あくまで一人の読み手の冷静な判断として。以前より平坦になったり窪みができたり、体脂肪と呼ぶべき無駄な装飾が付けられたり、センスを疑うようなセンテンスに改ざんされたり。そういう赤字に触れると、やはり悲しくなります。より発注主に与する広告関係の方によれば、通常扱う文字量の違いもあって「そんなのぜんぜん気にならない」そうです。そうなんだ。
じゃ、最初から赤字が入る前提で書けばいいじゃないかという考えもあるでしょう。けれど僕にはできません。何のかんの我が強いので、こんな感じでどうでしょうとぶつけてみたくなる意欲を封じ込められないから。なので、虎視眈々と赤字を入れようとする相手の気概を削ぐような、「そのひとつ上」の原稿を提出したいと、常々そう思っているのです。誰の目にも触れない僕だけの小さな戦いですが、結果はさておき、そこからは逃げたらオレ終わりなんですよね。終れないんですよね。何度溜め息をつこうとも。

季節の受け入れ方にも個体差があるようで。
