「見かけたら入らずにいられないから、ちょっと待っててくれる?」
そう呼びかけつつ、照れ臭そうな表情を浮かべた姿を思い出しました。こちらが待つかどうか確かめる前に扉を開けていたお茶目さも含めて。
数年に渡り旅の企画でお世話になった仮称Sさんが、見かけたら入らずにいられなかったのは立ち食いそば屋。少しだけ周辺情報を加えておくと、ビジネスで大成功した、いわば富裕層。けれど、僕が知るお金持ちの中でもっとも気さくな、金満感を微塵も漂わせなかった人でした。
あの企画はクルマ移動が主体だったのだけど、そのときだけは電車を利用したのかな。いずれにせよホームの中にあった立ち食いそば屋を発見したSさんの行動は、脊髄反射そのままの有無を言わせぬ速度を伴っていたのです。
「子供の頃、親に禁止されてたんだよ」
これはSさんが教えてくれた、立ち食いそば屋に入らざるを得なくなった理由。この証言にはいくつかの興味深いポイントが潜んでいます。一つ目は、Sさんが親の言いつけを守る子供だったこと。それが生来の素直さに由来するのか、厳格な躾による服従だったのか?
二つ目は、おそらくSさんは、知人友人が立ち食いそば屋に気兼ねなく立ち寄る習慣に、強く惹かれながら育ったと想像ができること。
そして3つ目。これが最大の関心事ですが、Sさんの親はなぜ立ち食いそば屋を禁止したのか。慌ただしく暮らすチープな庶民の拠り所だから? となればSさんが育ったのは、そば屋であっても高級店のみに通う品の高い家庭だったのかもしれない。
それらいくつかの疑問点は、質す機会を得られないままとなりました。というのは、立ち食いそば屋から出てきたSさんが、満足を絵に描いたような顔をしていたから。あるいはそれ以上に、オレはよかったという安堵に包まれたからかもしれません。高級店は禁止以前に入れずとも、小銭で小腹を満たせる場所を暗に奨励した家に生まれたのは、そんなに悪いことではなかった、というような……。
蕎麦が好きな僕は、昔も今も立ち食いそば屋が好きです。でも、かつてほど安くはないんですよね。そこはSさんにとって、特に問題ではないだろうけれど。

今日の話、神谷町の交差点で思い出しました。
