喜・怒哀・楽

たとえば歌や小説(あるいは音楽家や作家)など、強いて言えば本能的に好きになったものを人に打ち明けるのは、かなり困難と思ってきました。なぜなら、一元的な世間の評価を頼りに、「そんなの好きなの?」と蔑まれるのが怖かったから。好きの否定はしんどいですもんね。だから、こめかみに銃口を押し付けられるような場面に遭遇しない限り、自分から告白しなかった。
けれどあるとき、何の遠慮も衒いもなく「私も、それ好き」と伝えられると、好きを誇れなかった我が身を罵るより先に、肩の力が抜けるような安堵を覚えるのです。僕はそんなふうにして、価値観を共有するよろこびを体験してきました。かなり根の暗い経験値ですが。
以上の話は、価値観を喜怒哀楽に分類した場合、明るくて暖かい陽の喜・楽が他者とシンクロしたケースです。若い頃は、共有すべき価値観はそれだけで十分と思っていました。喜べるもの、楽しいこと、つまり好きな物事が同じなら、より親密な時間を持てると信じて疑わなかった。逆説的には、誰かと同じ時間を過ごすなら、暗くて冷たい陰の怒・哀は邪魔者に見えたわけです。
しかし、それなりに人生経験を積んでいくと、相手が何に怒り、何を哀しむかに共感できるほうが、本質的な部分で寄り添えるんじゃないかと思うようになりました。
多くの人は、できれば怒・哀を押し殺したいはずです。それこそが自分の本質的な、制御するのが難しい感情だから。対して喜・楽は素直に表現していい共感性が高い感情なので、僕以外と共有したっていいんですよね。
そこで改めて喜怒哀楽という熟語を見直してみると、さらけ出したくない怒哀をかばうように喜と楽が配置されているのがわかります。たぶん音優先の語呂合わせだろうけど、文脈的には納得できそうな流れでしょ。
さておき、価値観のすべてを理解したり共有するのはほぼ不可能という事実も、歳を重ねるほど身に染みていくのですが、価値観が4分割できるなら、そのうちの真ん中にくる感情だけでも真摯に向き合える人になれたらと、そんなことを思います。
この観念的な件、結婚を考えているという若者から相談された際、ちょっと偉そうに喋ったのを思い出して書きました。あの彼、とても神妙に耳を傾けてくれていたけれど、その後どうなったんだろう。怒と哀を知るべく余計な地雷を踏んでなきゃいいのだけど。

都心のビルって、椅子が用意されていてもウェルカム感が薄いなあって思った。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA