お弁当

SNSでたまにお弁当の写真を見かけます。掲載の意図は測りかねますが、それが立体イラストみたいなキャラ弁だとなぜか照れ臭くなります。いやいや、決して批判でありません。もし自分がお昼時に弁当の蓋を開けたとき、眼下にアート作品が広がったら、一度ひとまず蓋を締め戻してしまうと想像するだけです。
一方、奇抜さや華やかさはなく、強いて言えば茶系を感じるお弁当写真だと、世代的にも安心感があって、美味しそうだな、こういうの食べたいなと思うんですね。そういう一見地味な様相でも、実は料理的に手が込んでいるとしたら、その点を掲載者は誇りたいのかもしれません。
それらのお弁当は、およそ子供用なのでしょう。そうでないとこの先の話が進まないので、ここは一旦、誇るべきは誰かのためのお弁当ということにしてください。
で、誰かのためのお弁当写真に触れると、つくり手のプライドは、食べる人がよろこぶ姿を想像する力に支えられていると思わされるんですね。アメリカあたりの映画では、通学前の子供にピーナッツバターを塗っただけの食パンを持たせるシーンが出てきます。「まさかお弁当?」って驚くのは、それが日本人のお弁当概念から外れているからですよね。そして同時に彼の地には、僕らが知るお弁当文化が乏しいことを悟るわけです。
僕にとってお弁当と言えば、真っ先に浮かぶのは母親がつくってくれたそれです。確か中学校からはお弁当で、毎日ともなれば感謝が薄れていったというより、当たり前と思うようになりました。その無慈悲さを、今になって猛省します。つくり手のプライドを尊重するなら、仮に社交辞令であっても「今日も美味しかった」となぜ伝えなかったのか、本当に悔やまれる。
そんな後悔は、お弁当に対する憧れへと昇華しかけています。もはや皆無なんですよね、誰かが自分のためにつくってくれる機会は。もしよかったらどなたか、さして手間をかけずとも手づくりのお弁当をお願いします。僕は心底よろこべる自信を秘めています。

アリーナ!

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