今日は5月8日。その数字を目にすると、自然と掛け算をしてしまうのです。いわゆる九九に倣って。であれば計算式は5×8、懐かしい読み方に直せば「ご・は」が正しいですよね。
ところが僕は、目でとらえた数字を頭の中で勝手に変換して、8の段の読み方の「はち・ご」で答えの40を導き出すのです。九九の中では他にも似た例がたくさんあるのだけど、理由はわかっています。そちらのほうが音やリズム的に好きだったから。
いずれにせよ正解だからいいじゃないか。今の僕はそう言い訳します。けれど、幼い内から人の説明に難癖をつけたまま成長した結果、僕は算数も数学を好きになれないまま大人になってしまったんだと、たとえば5月8日を目にしたときに痛感するわけです。
「一つあたりの量」×「いくつ分」=「全体の量」
以上が掛け算の概念だそうです。とは言え九九を習う小学2年生に概念の意味を理解させるのは難しく、ゆえに先生は、誰でも読めそうな文字ないしは音に変えた九九を、呪文のように復唱させる指導をしたと思うんですね。生涯に渡り決して忘れない刷り込みとして。
いや、どうだろう。実は先生は、概念という言葉を使わず、掛け算の本質を黒板に書いてくれたのかもしれない。それに目もくれなかったのが、今思えば決定的な分岐点だったのでしょう。もし人の話を素直に聞ける性質なら、まずは概念や本質から理解を始められただろうし、なおかつ今に至っても正しい九九の読み方ができるはず。
「数学であれ何であれ、国語の理解が重要」
これは、中学時代の数学の先生が言った言葉です。そうだったのか? とたじろぎました。どちらかと言えば国語は得意だったのに、中学の数学教師が教えてくれるまで、算数や数学と国語はまったく別物ととらえていました。なぜなら、公式の説明にしても文学的な麗しさが皆無だったから。ただ、無味乾燥であれ数字の理屈を国語として読み解けていたら違っていただろうと。まぁ、中学生になって早々に数学とは縁がない人生と決めてつけてしまったので、すでに手遅れでしたが。
冒頭の日付掛け算の話に戻りますが、なぜそんな癖がついたかというと、せめて九九だけは忘れていない自分を確かめたいからなんでしょうね。数字に対するコンプレックスは、こんな歳になっても解消できないみたいです。また明日の日付を目にしても、最後にたどり着くのは劣等感なんだろうなあ。

雨で野球の練習が流れた翌日なのに、よくもこんなに晴れるもんだなあと思って。
