圧倒的な才能を目の当たりにしたことがあります。とは言え野球の大谷翔平さんのような、同じ時代を生きていながら別次元にいるとしか思えない人物のそれではなく、あくまで自分の日常的な場面の話で。
古いところだと、編集者を養成する専門学校時代。僕は社会人を経てから昼の1年制に入学したのだけど、そのクラスには大学在学中の学生もいました。4年生で単位も取れているから、専門学校に来る時間的余裕があったらしいんですね。ビビりました。大学の実績に加えて編集者になるための勉強をするようなヤツじゃないと、編集の世界で太刀打ちできないんじゃないかと思わされて。
案の定でした。そいつがやっぱり切れ者で、文学関連の授業の問いを数学を用いて答えたりしたのです。なおかつ、夏に関するコピーライティングを行う課題で、「蜻蛉」なんて単語をさらっと持ち出してきた。トンボに充てる漢字なのだけど、クラス全員が漏らした溜息の重さは今もよく覚えています。
そういうのはコンプレックスの源になります。それをどうやって消化したかというと、僕の場合は卒業後も必死で編集者を続けながら、こんなオレでもやっていけるかもしれないと自信をつける他にありませんでした。際立つ才能がないので、10年くらいはかかりましたが。
そんな懐かしい記憶がよみがえったのは、先週の土曜日。体育系大学OBの野球チームとの3回目の対戦で、かつてないほどボコボコにされました。そりゃそうよ。集まって練習する機会などないと言いつつも、そもそもの才能を20代前半まで鍛え続けた連中です。彼らのデフォルトはそう簡単に失われるはずがない。
であれば、僕らが滅多打ちにされるのは必然。なのに皆がっかりしたわけです。ここのところ強い相手と戦ってきて、そこそこやれる自信があったからじゃないでしょうか。けれどおそらく凡人は、そうした気落ちを圧倒的な才能からの贈り物と考えたらいいと思うんです。見返すまでには至らずとも、次こそは点差を縮めてやるという浮上のモチベーションに代えられるから。
しかし、埋めようのない差に直面すると、笑っちゃうくらい呆然となりますね。でも、また遊んでくれるらしいです。僕らは僕らなりに、愚直を通して楽しむしかないですね。けれど何か、悔しかったな。

サッカーもまた才能の違いに直面し続けるんだろうと思って。どの競技も同じか。
