おめでとう。ありがとう。

母親について書きます。
時計屋の長女として、昭和9年の東京に生まれました。妹が二人の三姉妹。11歳になるまでに父と母、つまり僕の実の祖父と祖母を亡くし、姉妹は千葉の親戚の家に移ります。そこで世話になった夫妻が、僕のおじいちゃんとおばあちゃんになりました。
終戦を経て、長女のみ東京で就職。育ての実家に仕送りをする日々の中で、やがて父親と出会います。当時の父親は、親の反対を押し切って埼玉から飛び出し、小説家を志望するもなかなか芽が出ず、舞台演出などをやっていたらしい。
そんな夢の欠片を拾い集めながらギリギリの生活を送る男と、幼い内に両親を亡くした長女の責任感で働く女が、どこでどう知り合ったかはよくわかりません。ただし母親曰はく、一人暮らしのアパートに転がり込んできたのは父親だったそうな。
母親が28歳になる直前の昭和37年9月、二人の間に長男である僕が生まれます。戸籍謄本でも確認しましたが、出生地が東京の高田馬場だったので、母親が住んでいたアパートはそこにあったのでしょう。
さておき父親は、子供を授かったことでヤクザな稼業から足を洗い、ごく普通のサラリーマンに。1年半を待たずに次男が生まれると、東京を離れて千葉で暮らすようになります。
余りある元気のおかげで怪我ばかりする長男と、生まれつき体が弱かった弟。そして、生真面目にも定時の出勤と帰宅に励む父親。この3人の世話を、ほぼ愚痴もこぼさず、そしてまた滅多に風邪などひかないまま務め上げたのが、いわば母親の半生です。僕が覚えている限り、保険の外交、ネクタイの仕上げ、サンドイッチ屋などのパートも欠かしませんでした。その生き方を「元来の働き者」と一言でくくれないのは、今になって思うことです。
息子たちが独立したあとは夫婦二人暮らし。定年を経た父親がカメラを趣味にすると、おむすびをつくってはともに撮影に出かけていました。その父親が病気で逝ったのは22年前。そこから独身時代以来の一人暮らし。僕ら兄弟にしても、そうすることが自然に思えたし、母親にも異存はなかった。けれど後に、父親を亡くしてしばらくはひどく寂しかったと打ち明けられて、我が身の親不孝を呪いました。
朝ドラにするにはまるでパンチが足りないけれど、これが僕の知る母親の物語のプロットです。本日、91歳になります。頭と内臓はめっぽう元気ながら、曲がったヒザの痛みは一向に引かないらしい。「歳を取るのはイヤだね」とカラカラ笑ってくれるのが、僕にとって何よりの、というかひとまずの救いです。おめでとう。ありがとう。

白い彼岸花の花言葉は「想うはあなた一人」だそうな。ふむふむ、なるほど。

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