ジンクスを気にするとか、和風で言えば縁起を担ぐとか。あるいはそれらをきっかけにしたルーティンや習慣は、もしかしたら自分の人生を窮屈にするのではないかと思ったりします。
たとえばアスリートでよく聞くのは、大事な試合の日は赤いパンツを履くというようなエピソード。しかし、当日のロッカールームで「赤パンツ忘れた!」となったらどうします? 家へ取りに戻るか、近所で類似品を探すか。そんな余裕がなかったら、ゲン担ぎのルールを破るしかなくなりますよね。それが気になって試合に臨むのって、かなり面倒臭い話です。ならばそんなゲン担ぎなど持たないほうがいい。なのに人は、なぜかしら厄介なほうを選ぶみたいです。
僕にもジンクスがあります。新しい靴は午後に下ろさない。前にも書いた記憶がありますが、故人の弔いに関する通例をもとに、子供の頃から母親に言い聞かされてきた一種のまじないみたいなものです。そんなの迷信だと、かつての僕は聞く耳を持たなかった。ところが16歳の誕生日の午後、新品のブーツを履いて出かけた先の階段で転げ落ち、右足首をひどくねじったのでした。
この経験が、本来は縁起の悪さを示す本物のジンクスとなり、今もって新品の靴を午後に下ろせないでいます。履こうと思っても昼を回っていたら箱に戻す。その縛りのせいで1週間以上も箱から出せないときもある。そんな面倒を回避するため、可能な限り購入直後、深夜であれ午前中のうちに履いて部屋を出るのです。エレベーターまでの短い廊下であっても良しという勝手なルールに則って。
こうなると儀式ですね。おそらく多くのルーティンや習慣には、どこか宗教的な要素があるように思えて、だから人は、少なくとも僕はその破棄をためらうのかもしれません。確かに、何度か厄介なジンクスとやめようとしたのですが、そのたび16歳の誕生日の階段シーンがよみがえるんですよね。45年前のバチ当たりに蹂躙されっぱなしなのもどうかと思うのだけど。
「日々の行動の4割以上は、その場の決定ではなく習慣で決められる」
アメリカの大学が発表した論文の一節らしいです。習慣の呪縛がそれほどの支配力を発揮するなら、この前買った靴がいまだ箱から出せないままなのも、もはや嘆かなくていいのかもしれません。いやいや、早いうちに儀式を済ませなきゃ。

レスポールだらけ。アガるぅ。
