文化の日の雨ニモマケズ

宮沢賢治の有名な「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」が書かれたのは、今から92年前の1931年(昭和六年)11月3日だったらしいのです。らしいというのは、確かめようがないから。
そのおおむね詩とされている記述は、同年の秋に花巻の実家で闘病中に使っていた黒革装丁の手帳に記されていました。ただしその手帳は、1933年9月に37歳で賢治が亡くなったあと、弟の清六が遺品のトランクから見つけたそうです。だから本人には何も確認できなかった。ただ、書き出したページの右上に「11、3、」というメモがあったので、それを日付と推測しているわけです。
短い人生だったがゆえ、本人が存命中に刊行された著書はわずか2冊。世に出ずとも『注文の多い料理店』を始めとする多くの童話を残しましたが、『銀河鉄道の夜』や『風の又三郎』といった名作、それから詩のほとんどは死後の発表です。賢治の才能を尊重した文化人が尽力した成果だそうです。ありがたい。
そうして遺品の手帳から「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」が発見され、締めの「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」に共感する大勢の読者を生むに至りました。一方で、ウィキペディアによれば「ヒドリ」対「ヒデリ」の論争が起きたそうです。賢治の直筆は「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」。一方で編集者が誤りと判断して直したのが「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」。漢字と平仮名に直すと「日照りのときは涙を流し」となるので、全体の文脈にふさわしいと考えたのでしょう。
ただし原文の「ヒドリ」は日雇い仕事を意味する「日取り」という説もあり、そうであれば「日取りのときは涙を流し」でも間違っていない、むしろ賢治はそう書いたはずと主張する方々もいるらしいんですね。
本当はどうだったんだろう。それがわからないので、誰もが秘密を解くようにして論争に参加したのかもしれません。でも、本人はどうなんだろう。彼の手帳が易々と人の目に触れさせたくないものだったなら、なぜ公表したんだと怒っている可能性があります。それも今となっては確かめられませんが、作家なら何にせよ評価を受けたほうがうれしいのかな。
文化の日にふさわしい内容となったでしょうか。こんな話をしていたら、宮沢賢治が読みたくなりした。先頃の本棚大整理でも文庫は残してあります。その1冊が、昭和五十三年九月だから1978年発行30刷の『風の又三郎』。すっかり黄ばんでいるけれど、いい匂いがします。

紙が黄ばむ理由、少し前にチコちゃんに教えてもらった。

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