駅伝のSとM

3連休最後の昨日は、大学三大駅伝のひとつとされる全日本大学駅伝のテレビ中継を眺めていたのですが、つくづく酷な競技だと思いました。
駅伝というのは、いわばマラソンの団体戦ですけれど、そもそもマラソンは個人競技であり、本来的に結果のすべては自分の裁量となるものです。ゆえに、タイムや順位に関する責任も自分だけで負える。趣味としてのマラソンが人気なのもそこに理由があるんじゃないでしょうか。誰かを誘わずとも練習できる気軽さも便利ですし。
なのに、ひとつのコースを複数名で分担し、襷をつないで順位を競うなんて、ねぇ。希望の結果を出せたチームはまだしも、そうではないチームの場合は否が応でも失速した選手が目立ってしまう。
「それを選手全員で補うのが駅伝のいいところ」
そういう意見も理解できなくはありません。けれど、チームという形で良くも悪くも連帯責任を負わせるところに日本人的サディズムが潜んでいるような気がするのです。
何しろこの国発祥の競技です。その元祖とされているのが、1917年(大正六年)4月に開催された『東京奠都記念東海道五十三次駅伝徒歩競走』。日本の首都を東京に移した奠都(てんと)から50周年を記念した大イベントで、東海道五十三次とあるように、京都から東京までをつなぐ駅伝大会でした。
その距離516キロ。関東組と関西組の2チームに分かれた各23人が昼夜を問わず激走し、ゴールしたのは約44時間後。襷をバトン代わりにするのもこの大会から始まったらしいけれど、昼夜問わずと聞くと、想像を絶する過酷さに悪寒が走ります。
しかし東海道五十三次駅伝は世間の評判となり、3年後に『東京箱根間往復大学駅伝競走』を開催する運びとなるのです。その通称『箱根駅伝』は今度の正月で100回目ですから、日本人はよっぽどSが、いや駅伝が好きなのだろうと。海外では行われないですもんね。ましてやオリンピック競技に選ばれることもないでしょう。
けれど、こうも思うんです。駅伝が日本人特有のサディズムを刺激するものだとして、その中継を飽きもせず見続けられる僕にも、日本人ならではのSと、その対極とされるマゾヒズムがセットで宿っているのではないかと。でないと説明がつかないんですよね。あるいは優勝争いよりも、シード権や繰り上げスタートが迫る戦いに興奮する理由が。
SやMを用いて駅伝を語ると叱られる気がしますが、あらゆる競技の中で駅伝ほど、と思ったので書いてみました。

警察署の奥でもクレーンは常に孤高。

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