「怒ったりしないでしょ?」と確信的に問われるような言動が原因なのかもしれません。自分ではそんなつもりがないのだけど。何より、本来は短気で怒りっぽい性格だと思っているし。
年若からのイジりが年々激しくなっている気がする、という話です。イジりは弄りと書きます。動詞的には【いじる】。同じ漢字と送り仮名で【まさぐる】とも読むので、ちょっとイヤらしい感じも漂います。意味合いはどちらも、「指先や手で触ったりなでたりする」とか「物事を少し変えたり動かしたりする」
先に【イジり】と表記したのは、僕が被っている【弄り】の本質的な軽さを示すにはカタカナがふさわしいと思ったから。この感覚を最初に試したのは、落語家や役者だったみたいです。いわゆる「客いじり」によって、舞台の雰囲気を動かすのが狙いだったのでしょう。けれど、やり過ぎは嫌われそうです。落語家なら噺で。役者なら芝居で客を満足させなきゃ本物じゃないはず。
そうなの。やり過ぎはよくないと思う。なのに僕はイジられる。もはや最近は老若男女を問わず。なぜだろうと誰かに聞くと、「それだけ愛されているんですよ」という答えが返ってくる。ならば喜ぶべきなのかもしれないけれど、愛なんて曖昧な理由じゃ腑に落ちないんですよね。
それならやはり注意すべきか? 極めてセンスの悪いイジりに関しては、無言無表情を決めて拒絶の態度を示します。こちらから言葉を発するのも時間の無駄に思えるから。しかし幸いにも僕の周囲にはセンスの悪い人が少ないので、いくらか面倒臭くてもまぁいいかって気持ちになっちゃうんですよね。
喜怒哀楽のうち、特に怒哀が沸き上がったときは一旦ぐっと飲みこむ。そんな振舞いができる大人になろうとしてきて、「怒ったりしないでしょ?」と問われるようになったのは、ある意味で目指した成長が遂げられた結果と言えるのでしょうか。
果たして、感情の起伏がなくなるのと許容範囲が広がるのは、大人として同義ととらえていいのだろうか。ふむ、よくわからない。ひとつだけわかっているのは、歳を重ねたからって何でもわかるわけじゃないということです。だから何かがつかめるまで、年若のイジりは放っておくのが最善かもしれません。今のところ面倒臭さは苦笑いとともに飲み込めるし。

これも高輪ゲートウェイ駅周辺。もはやクレーンの見本市。
