意地

そしてまた実家に長居する正月は、母親のさらなる老いを実感することになるわけです。しかし、意地っ張りな人なんですよね。一人で何でもやろうとする。
翌日から仕事が始まる弟家族が帰ったあと、六畳間に置いたコタツをもそもそと動かし始めました。この時期なのでまだ片付ける必要はないと思い、「どうするの?」とたずねても聞く耳持たず、というより聞ける耳持たず。難聴がひどくなる一方なのも老いのリアルです。
何をしたいのか耳元でたずねたら、続き部屋に構えるいつもの位置に戻したいらしい。そういうことかと思った瞬間、広めの部屋にコタツを移す作業は母親が単独でやったことに気づきました。おそらく午前中から。そんなの息子家族が来てからやらせればいいのに、昭和一桁生まれの母親はそういう考えを持ちません。片付けの手間を無視してでも、座布団代わりの敷物を何枚も用意する。
見かねて手伝いました。敷物を仕舞う場所や、剥がしたコタツ布団をかけ直す段取りをいちいち耳元でたずねながら。「助かるねぇ。ありがたいねぇ」と言われたけれど、放っておくことはできないのよ。
おそらく、すべてがそんな感じなのでしょう。何にせよ老人は、思い通りにならない体を動かすのに時間がかかる。紙束を指先でつまみ上げる単純な動作であっても、何度も繰り返さないと成果が得られない。
そんな光景、さすがに見慣れてきたけれど、常に迷うのは、どこまで手を貸すべきか。僕だったら、自ら救いを求めるまでは手を出さないでほしいと思うはずです。一人で過ごす普段はそういう時間の使い方をしているし、何より手間のかかる姿を人に見せたくないから。だから意地というのは、人が生きるための重要なモチベーションになるのだろうと、それは老いた母親に教わった教訓と言っていいでしょう。あるいは母親の心中を察することができるのは、僕に受け継がれた意地っ張りの遺伝子のおかげです。
しかし、どこまで現状の意地が保てるのか。その見極めも、正月に迫られる難しい課題になっています。皆さんはどうですか?

名もなき公園にて。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA