先週末あたりは私立中学校の入学試験があったそうで、受験生を持つ飲み仲間から合格の報せを聞き、何度か小さく祝杯を上げました。小学4年生くらいから3年かけて受験に臨むんですってね。僕にはそのための労力をまかなえる自信がないので、子供たち以上に親たちに敬意を払いたいと思います。
そこでふと、親にたずねたいことが浮かびました。子育てが終わったと実感するのはいつなのだろうと。この問いに即答したのは、二人の大学生の娘を持つ母でした。
「トナオのお母さんなら、まだ終わった気がしてないと思うよ」
その鮮やかでさっぱり風味な言葉が耳に飛び込んで最初に思ったのは、「そりゃそうだ」でした。それは、生涯に渡って自分は母親の息子であり続けるという、母と子の普遍的な関係性に基づく納得です。すんなり受け入れられたので、これ以上の質問はなかった。ところが相手は、さらに切れ味鋭い言葉を僕の首元に飛ばしてきました。
「だって、会えば必ずご飯の心配してくれるでしょ。男の子のお母さんにはそういうところがあるから、いつまで経っても子育てが終わったとは思わないじゃない?」
袈裟斬りでした。ばっさりやられた感触があった。確かに、何かにつけ腹の減り具合を聞いてきます。弟家族も集まる正月にしても、台所に立たないことはないし。こっちにすれば、僕ら兄弟はもう子供じゃないからといさめるのだけど、それがあるいは母性の本能的な振舞いだとしたら、母親は僕らに対して子育てが終わった実感を持てないままでいるのかもしれない。二人の子供を育てる彼女の言葉そのままに。
なかなかにショックでした。肩口から斜めに斬られて、自分の無知さ、または未熟さが露になった感じです。そうして見えない血を無様に流しながら、改めて感じ入りました。
「親思ふ心にまさる親心」
吉田松陰が記した歌の一節。時勢に飲まれるようにして享年29歳で逝った松陰先生は、何でも承知していたみたいです。中学受験する子なら、それくらいは知っているのかな。我が子を持つこともなく、いまだ悟り切れない僕にできるのは、母親の支度を断らないことだけでしょうか。

雷鳴まで轟きつつ、わずか数時間で見知らぬ雪国に。やっぱり暴力的な気候だよな。
