昨日は、生まれたときから知っている子の誕生日。なのに、前日あたり「明日の日付には何かあったはず」と、具体的な要件を思い出せずにモヤモヤしていました。失礼な話なので、彼女がここを読まないことを祈るばかり。
そんなわけで記憶が曖昧なまま当日を迎えたら、Facebookが朝一でその子の誕生日を伝えてくれました。優秀な秘書がこっそり耳打ちするみたいに。
その気遣いを素直によろこべません。いくらSNSがパーソナルな面をサポートしてくれるツールであっても、個人的に大事な日付を覚えきれていない自分の不甲斐なさが先に立つから。もしFacebookが先回りしなかったら、僕はそのモヤモヤを自力で解決したと思うんです。そうして彼女にメッセージを送れば、僕は自分に勝てた満足感に浸れたはず。
「思い出せなかったらどうするんだ?」
そうなんですよね。心が晴れない無為な時間を過ごさないために外部記憶があるなら、それこそ心からの感謝を込めて活用すべきというご意見も理解できます。けれど、感情などない無機質な存在であれ、他者に誕生日を教わって祝うというのは、どことなく表層的で、むしろ不義理な気がしてしまうのです。
なので僕は数年前、Facebookが教えてくれる誕生日にバースデイメッセージを送るのを一切やめました。それじゃ友人が少なくなるのも無理はありません。にもかかわらず、自分の誕生日にメッセージをくれる方が少なからずいて、短い文章に目を通すたび、なぜか切ない気持ちが込み上げてくるのです。
何の話だっけ? その子と最後に会ったのは、たぶん10年くらい前の彼女の結婚式でした。それ以降は顔を合わせる機会がなかったのだけど、確か彼女から先に僕の誕生日にメッセージをくれたんですよね。そこから年に2度、互いの誕生日にメッセージを送り合うようになりました。それが現在唯一のつながり。
「だからあんたもSNSに救われてるんだよ」
そう言われると返す言葉が見つかりません。何かにつけ無駄な抵抗を試みることこそ、無為な時間なのでしょう。もっとも大事なのは、モヤモヤに懲りたら彼女の誕生日をしっかり覚えておくことに他ならず。いやまったく、彼女がここを読んでいないといいな。

こんなに短い正午の影。夏至の近さを思う。
