今日は、1948年に亡くなった太宰 治の命日です。愛人とされた女性と玉川上水で入水自殺した遺体が発見されたのは6日後。その6月19日を、交流のあった小説家が太宰の作品名にちなんで桜桃忌としたので、命日が混同されているかもしれません。
さておき、まだ若く将来が見込まれていた作家や音楽家が自殺した件は、感性が豊かな人ならではのドラマティックな結末として受け止められ、伝説的と崇められたりもします。
そんな思いが理解できなくはありません。自殺や、それに近い死はあまりに衝撃的なので、ある意味ではこれ以上にない美しい物語の終わり方として、永遠に語り継がれる力を宿すだろうから。けれどそれは、遠い場所にいる他人にだけ響く力ではないでしょうか。
時々考えるのは、人間は心臓が止まった瞬間から腐敗が始まってしまうということ。相応の保存方法はあっても、自発的な血液循環が止まってしまえば、べっぴんだろうとイケメンだろうと、生きているときの形態は確実に崩れていきます。であれば、形状に自身のない僕は少しでも早く荼毘に付してほしい。しかし当然のことながら、自分では火葬場に行けないので誰かに任せる他にありません。
ゆえに一人の死は、致し方なく周囲に負荷をかける一大事と言って間違いわけです。その申し訳ない迷惑を想像するだけでも、簡単に死ねないし、死んじゃいけないと思う。正しく送るべき人の荼毘全般が迷惑という意味合いではなくて。
死の淵に瀕した状況で、どこまで他者を慮れるかは、そうなってみないとわかりません。でもできれば、腐っていく自分を見捨てないでくれる人たちの顔を思い浮かべたいです。親しい人に限らず、死んでから会う業務関連の人々の存在も含めて。
こんな話が自殺の抑止につながる自信はまるでないのだけど、そんなことを考えます。いやいや、やっぱり簡単に手を出しちゃいけない話題だったな。

イベントの準備は着々と。
