自分ではどうにもできないことがありますね。むしろこの世界にはそっちのほうが多いかもしれない。たとえば誰かの体調であったり、連絡が途絶えた人の消息だったり。それらの事情や理由について考えると、たいがいは芳しくない想像が走り出します。昔の賢者は「下手の考え休むに似たり」とにべもなく諭すけれど、自分にとって大事な人や事に対しては思考が休められないんですよね。だから名もなき賢者には「それ、わかっている?」と言い返したくなります。
とにかく、黒っぽい想像が走り出すと胸の辺りがざわざわしたり、同時に別件が重なったりすればイライラが募りますよね。そういう状況を「気を揉む」といいます。これもまたおもしろい表現で、そもそも「気」というのは、「気配」や「気分」が示す通り目に見えないものなのに、それを「揉む」なんてのは現実的に不可能なのです。そんな元から揉めないものを揉もうとするから、ざわざわしたりイライラしたりするのだろうか?
そこで、ふと思いました。揉めない「気」を実体化させれば現実の手触りを伴って揉むことができるのではないか? あの、やらしいことイメージしないでくださいね。そっち方面ではない問題で先週の僕は参っていたのだから。
話を戻します。つまり一人きりの部屋で「気を揉む」くらいなら、「下手の考え」が指し示すように、文字通り気になる人や事に向けて直接的な行動をとるべきなのではないかと。そういう逆説的な暗示が「気も揉む」には潜んでいるのだろうと。しかし闇雲に動けばパンドラの箱を開けてしまうようなケースがあるだろうから、行動にはタイミングも必要でしょう。
ただ、何かしら動いたほうが精神はヘルシーですね。「気を揉む」ときって、まったくもってハッピーで笑っちゃうようなイマジネーションが沸き上がらないもんなあ。

午前9時から野球。朝の光は気持ちいいけれど、ねぇ。
