1985年11月28日は、「葬式無用 戒名不用」と手書きで綴った遺書を残した、白洲次郎さんの命日です。伝えられる限り、最期まで潔くカッコいい人でした。
まず、経歴が華々しい。わずか17歳でケンブリッジ大学に留学。それから9年の英国滞在中、彼の国の貴族文化に触れたそうな。中でも戦前のブガッティやベントレーでヨーロッパを旅して回った逸話は、クルマ好きにはお伽噺に聞こえます。
帰国後は実業家となり、いくつかの会社の取締役を歴任。商談で度々海外に飛ぶ最中、当時は駐イギリス特命全権大使、戦後に首相となる吉田茂と親交を持つようになりました。
第二次大戦が始まると、現在の東京都町田市にあった古民家を購入し、表舞台から姿を消すように農家生活を始めます。白洲さん的に言えば、英国貴族に倣ったカントリーライフの実践だったらしい。
この人が歴史の真ん中に浮上するのは、日本がGHQの支配下に置かれた終戦直後。外務大臣だった吉田茂が、側近として白洲さんを招聘。堪能な英語と、海外経験の豊富さに相まった肝の座り方を発揮して、厄介を極めたGHQとの交渉サポートを請け負います。この頃の白洲さんの信念は「戦争には負けたが、奴隷になったわけではない」だったとか。
政治関連の最大のトピックは、1951年9月のサンフランシスコ講和会議でしょう。日本の主権回復を議会で演説するのは、首相になった吉田茂。その演説原稿が英語だったことに白洲さんは激怒。「戦勝国の代表と同等の立場なのに、相手国の言葉で語るバカがどこにいるか!」と怒鳴り、演説15分前までに全文を日本語に書き直させました。痛快だな。
それから数年は外務省顧問を務めるも、政治における自分の役割は終わったと見極め、政界を引退。経済復興に尽力し、東北電力の会長を皮切りに、再びいくつかの会社の役員や顧問を歴任。晩年は軽井沢に通い、ゴルフやドライブに興じました。
そんな白洲さんを僕が知ったのは、今から25年くらい前。編集長を務めていた『LAND ROVER MAGAZIN』というランドローバーの専門誌で、ランドローバー輸入第1号車を探す企画を実行していたときです。調査と取材をお願いしたフリーライターによると、東北電力時代ないしは電源開発のためダム建設を指示していた頃の白洲さんが英国から輸入し、自らハンドルを握っていたという事実にたどり着きました。
そこで、1998年の第10号で巻頭大特集。驚くほどラッキーだったのは、白洲さんの生涯を記した私家版の『風の男』を、新潮社が単行本として発行するタイミングだったこと。それを聞きつけて新潮社を訪ねたら、白洲家から預かった写真を自由に使っていいという許可をもらえました。なので表紙からフル活用。おそらく、二度とできない贅沢でした。
そんなわけで久しぶりに白洲次郎特集号を読み返してみたのだけど、記事もデザインもいいんですね。それを自慢したいのではなく、僕らが手本にすべきカッコいい大人がいたことを知ってもらえたらと、そんな思いで白洲さんに触れました。いやまったく、「葬式無用 戒名不用」と書き殴ってこの世を去りたいなあ。アンタが書いても重みがないと呆れられるだろうけど。

秩父宮妃殿下を横に乗せてハンドルを握るのが白洲次郎さん。1954年に撮られた写真を表紙に使わせてもらった今号の特集は、改めて読み返しても自慢の出来です。
