ずれたのは皆ではなく

この件、ともすれば周囲の人々を不快にするかもしれませんが、決してそういうつもりではないことを前置きしてから触れます。
知り合いのところに行ったとき、気付かないうちに撮られた写真がSNSに上がっている場合があります。それを誰かが発見して、「あそこにいたね」と言われたりすると、「なんで?」と驚くわけです。
その違和感を周囲に話してみました。すると、「知り合いだからいいじゃん」とか、「やましいことしてないんでしょ」と返ってくる。
それはそうなんです。知らない仲じゃないからたいがいのことは許せるし、やましかったりいかがわしい行為を撮られたわけでもない。ただ、これは性格なのだろうけど、自ら明かさない限り自分の行動をつまびらかにされるのが、あまり好きじゃないのです。
いや、わかっていますよ。そんなことを口にすれば「芸能人じゃないんだから、もったいぶるな」と茶化されそうなことも。しかしとにかく、人には好き嫌いや得手不得手がある。それゆえ、せめて「アップしてもいい?」という断りがあってもいいのではないか? そうしてもらえたら、僕だってたいがいは拒否しないし、何なら再撮にも応じます。
ただしアップの断りに関しては、周囲の返答を受けて飲み込みました。そうした感覚が今の共通認識であれば、僕が知っている常識が変わったんだと思えたから。つまりずれたのは、皆ではなく僕だったと……。
翻って我が身に常識のずれがないか確認して、わずかに思い当たる節が見つかりました。原稿を書くための取材では、面と向かったインタビュー以外の立ち話で聞いた話を大事にします。気を張っていない場面で出る言葉に本音が滲む場合が多々あるから。それを文章に落とし込むのは不意打ちだけど、発表前に先方のチェックを受けるので、そこは確信犯的な手法にしています。
それから、小耳に挟んだ素敵な逸話をここで披露する場合。個人名は必ず伏せるし、逸話の背景に相応の演出を加えて普遍化を装うので、当人には断りを入れません。しかし、時に「書いたね」と詰められることが無きにしも非ず。それでも写真ほどには本人確定に至らないと思うのだけど、どうでしょう。
暗に伝えたいのは常識と良識の違いだけど、それも伝わりにくい話なので、今後は自分もより気を遣うようにします。

今季最強寒波襲来中らしいけれど、僕の町の空は、真冬の気配が薄まったように見えた。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA