諦観

子供の頃には知らなかった言葉があります。理由を検討してみて、まずは学校でまだ習っていなかったという言い訳が立つなあと。あるいはそれ以上に、その言葉が必要な状況に遭遇していなかったのではないかと考えました。
そんなこんなで本日のワードは、諦める観と書く諦観。この熟語の意味合いをじんわり感じ取るのは、よく話す社長さんです。
同時進行するいくつものプロジェクトを統括しているので、自ずと関わる人数が多い。すると、それぞれに目的や目標が定められていても、各所を受け持つ人の立場や性格によって、最短ルートからの迂回に留まらず、時に逆行が起こる機会がプロジェクト単位で増えていく。それが世の常であっても、「何なんだろうなあ」と、言葉にするでもなく、溜息をつくでもなく、雰囲気としての諦観が滲み出る。
この前は、いつか諦観だけを語ってくださいとお願いしました。誰にも聞かせらない話になる可能性は高いけれど。
似たようなケースは、どこにでもあります。仕事の流れでは川下に位置する僕も、よく体験します。明確なリーダーの不在や、関係者内で目的や目標の共有が不十分だと、上流で流したものの形がよくわからないまま下流にたどり着く、みたいな。
それでもスケジュールだけは強固な生け簀に収めて放流されるので、川下の住人はそれを捕まえんと泳ぎ、生け簀の中から自分の役割を見つけ出す……。
などと具体的に話すほど愚痴っぽくなるわけです。聞きたくないですよね。言いたくもない。そんなときに人を救うのが、諦観という言葉なのでしょう。
意味は二つ。「本質を見極めること」「諦め悟って超然とすること」はて、二つに分類できるのかな。「事態の本質を見極めた上で、結果を諦め悟り、超然とする他にない」が、僕が知る諦観にもっともしっくりする気がします。
そのどうしようもなく冷めた感じ、子供はまだ知らなくていいんだろうな。

暗くなっても本堂まで見通せたので、ありがたく拝ませていただきました。

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