大往生を迎えてもいい年代であれ

先日、弟の奥さんのお母さんが亡くなった報せを受けました。そのお母さんとお会いしたのは、30年以上前の弟の結婚式だけだったと思います。それくらい細い縁ではあったけれど、同世代の親御さんの訃報となれば、やはり自分の事情に引き寄せた感情が胸に宿ります。
96歳だったそうです。最近は人生100年時代と言われるものの、80代で逝っても、人は大往生と呼ぶんじゃないでしょうか。そこまで生きたなら十分だったに違いないと思って。でもそれは、最期を見守った者たちが諦めを受け入れるための、安堵の呪文かもしれません。
などと不謹慎が漂う発言をしているのは、超がつく高齢者の気持ちがわからないからです。自分が90代に届いていなければ、何が人生の十分かなんて共感のしようがない。あるいは生に対する意欲を、周囲の者たちより先に当人が諦めるとも限らない。いやまぁ、90歳の母親を持つと、そんなことを自動的に考えてしまうわけです。
この件を母親に伝える役目は弟が買って出てくれました。兄として異存はありません。それが正しい順番だろうから。ただ、おそらく弟と同じように、これをきっかけに気落ちする不安はありました。
「いろいろ、ありがとうね」
これは母親の、弟からあれこれ聞いた後、僕がかけた電話の第一声でした。香典等の手配を息子たちがまかなったことに関する礼です。ちなみに母親は高齢を。僕は疎遠を理由に葬儀の参列を見送らせてもらいました。先方の方々に、こちらの遠からぬケースでご迷惑をおかけしないための配慮の意味合いも込めて。
「今日は大変だったのよ。お風呂の順番を守らない人がいて」
気付けば、話題はあっという間に変わっていました。入浴は近所の施設へ。湯舟が低く、またヒートショックなどの予防も施設の人が管理してくれるので助かるという話は、何度も聞かされています。母親は朝一で現地まで赴いて予約を取るらしいのだけど、最近はそれを無視してずかずか入ってくる人が多いらしい。
「本当に、オバチャンってオバアチャンは図々しい」
あんたもオバアチャンだろうとは、いくら耳が遠くても口にしません。ただただ、ふんふんと聞くだけ。
弟の嫁のお母さんが亡くなったことに無関心ではなかったはずです。でも、どうなんだろう。90歳ともなれば、年上はともかく、年下の知人を見送る機会を数多く経験してきたから、もはや達観しているのでしょうか。あるいはそれ以上に、何歳であれ今日を生きることに精一杯なだけかもしれない。やはり肉親であれ、またはいつ大往生を迎えてもいい年代であれ、推測する他者の気持ちは推測の域を出ないということですね。
常に一方的に話し、しゃべり疲れたら電話を切る。ありがたいことが続いているなあって、思っています。

久しぶりの場所であっても、東京は完成するつもりがないんだって思わされる。

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