いい歳して言うのもナニですが、「オレも大人になった」と一人ほくそ笑むのは、穴が開いた靴下をためらうことなく捨てられるようになった瞬間です。そんなの当然でしょとおっしゃる方もいるでしょう。しかし、その当然ができるまでには時間がかかりました。
まず、穴が開く靴下というのは、およそお気に入り。気に入って何度も履くからダメージが進むわけだけど、好きなものを捨てるのは忍びないじゃないですか。だから、以前は穴を見ないふりして履いたりしていたのです。けれど一度空いた穴は拡大するのが宿命。なのに履かずにタンスに仕舞ったままにしたりして、廃棄から逃げ続けていました。
あるとき、そういう行為に何の意味もないことを悟りました。きっかけは覚えていませんが、繕ったり、靴下以外の別の使い方をしないなら、未練を断ち切ってお別れする他にないのだと。
やはり靴下の穴は、他人に知られてはならない弱点です。どんなにカッコつけていようが、そこに小さな欠落があれば、一瞬にして説得力を失いかねない。あるいは場合によっては、完璧そうに見える人のささやかな抜けどころとして、好意的に受け止めてもらえるかもしれません。しかしその手のハプニングは、あちこち隙だらけの人間には有効に働かないでしょう。それこそ「コイツ、穴だらけだな」と蔑まれるのがオチです。
であれば、少なくとも見た目だけは整えるべく、穴の開いていない靴下を履いて出かけなければならない。自信もまた、細部に宿るから。
別の穴の話ですが、ジーンズなどでファッション的に施されるダメージ加工の類も受け入れられません。徹底的に穿き込んだり、オートバイで転んでヒザに穴をあけたジーンズしか持っていなかった、極めて貧しかった20代の頃を思い出すから。
ゆえに僕にとっての穴は、若気の至りでほじってしまったくぼみからの卒業を意味します。懐かしいけれど、そこには戻れない。別の言い方をすれば、穴を見過ごすようなら大人でいられない。
生きていくのは、なかなか厄介ですね。ここのところ、お気に入りの靴下の穴開きが頻発して、大人でいることの難しさを再確認しています。

ひょっこり京都タワー。そう言えば、夜の姿って見たことなかったな。
