5年前の3月29日は、志村けんさんが亡くなった日。新型コロナウイルス感染症に伴う肺炎が原因でした。
中国で新種のウィルスに感染した事例が報告されたのが2019年12月。これを受けWHOは、「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態」を2020年1月末に宣言。このときまで日本人の多くは、まだ対岸の火事的な感覚でいたと思います。少なくとも僕はそうでした。
他人事では済まされない恐怖を実感したのは、同年2月に日本に帰港したダイヤモンド・プリンセス号内の集団感染。そしてWHOは3月11日に、「新型コロナウイルスによる感染拡大を世界的な大流行=パンデミックとみなせる」と発表。志村さんが体調を崩し緊急入院したのは、その9日後だったそうです。
それから起きた様々な出来事は、それぞれの立場で受け止め方が異なるでしょう。僕はおおむね無事でした。ただ、コロナ禍の最中に母親の入院が決まったとき、即座に志村さんのお兄さんを思い出して覚悟を決めました。
厳重な感染防止対策によって、入院中の見舞いはおろか、亡くなった後の火葬にも立ち会えなかった。お兄さんは、メディアの取材に対してそう語りました。弟はもちろん、自分の身に何が起きたのか、まるでわからないと言った様子で。それは、すでに僕らが前代未聞の理不尽に迫られている合図になりました。だからよく覚えていたのです。
母親が入院したのはコロナ禍の後半で、なおかつ感染とはまったく別の、内科的な理由でした。それでも見舞いは一切禁止。入院に必要なものを届けるにしても、当人とは会えない指定の場所まで。そんな事態に直面し、息子としてしっかり記憶したのです。病室へ向かう母親の背中を。
幸いにも3週間で退院し、内臓方面は入院で整ったので、さらに元気になりました。けれど僕は、見納めになるかもしれないと刻み込んだ背中の映像を、今もありありと思い出せます。
コロナ禍終了から間もなく2年を迎える中で、実を言えば無頓着にも、そんなことがあったなんて信じられない気持ちでいます。しかしいろいろな事実は、起きた瞬間から決して消えない軌跡を方々に残している。たとえば、人を楽しませるために生きた才人の最期は、その最たるもののひとつです。

軒先にも来はじめました。
