ここ数日は、方々で入学式が行われたんじゃないでしょうか。そのあたりをお題にすると、自分にとって思い出深い入学式について書きたくなります。僕の場合は、時系列でもっとも遠い小学校の入学式が印象に残っています。
式次第など知らされずに入った体育館。見上げた天井に輝いていた水銀灯の光がとても綺麗でした。記憶の中の映像では滲んでいるので、ちょっと涙ぐんだのかもしれません。そんなふうに涙腺が緩むくらい感動できた自分に驚いたのが、実はもっとも思い出深い出来事です。
式の前後どちらか定かではないけれど、下駄箱の自分の名前が「たむらとしお」になっていたのもよく覚えています。「十七男をとなおとは、そりゃ普通は読めないよな」と一人納得しつつ、わざと先生に「僕の名前がありません」と伝えたんだっけ。まったくもってこまっしゃくれた子供でした。こまっしゃくれたなんて、今は言わないのかな。
さておき、入学式に関してつらつら書きながら、ある意味で重大な欠点に気付きました。僕には子供側の記憶はあっても、親側のそれがまるでないことです。子供を持たない人生を過ごしてきたので、今さらという話ですけれど、我が子が入学式を迎えた親御さんの気持ちって、どんなものなんでしょうね。おそらく僕の想像をはるかに超えた、様々な感情が入り混じるのかもしれません。そしてまた、その感情を共有し合えるのも、親御さん同士だけに違いないでしょう。
これも子供を持たず、学校方面の慣例を知らないせいですが、親御さんという呼称は問題ありませんか? さすがに父兄は時代的にNGで、両親も事情によって使えないケースがあるだろうから、保護者が妥当なのは推察できます。それに親御さんというのも、もはや古いかもしれません。しかし子供を立派に育て、入学式を迎えることができた保護者の方々を心から敬いたい。
なので、子供側の記憶しかない者を代表して、世界中の親御さんにお祝い申し上げます。おめでとうございます。入学式を経て新生活を迎えるのは親も子も同じでしょうから、困っしゃくれたことを言うようですが、どうか健康にご留意ください。

近所の夜桜ライトアップ。もう少し楽しめるのかな。
