「武器を持て市民よ」

1792年4月25日は、フランス国歌の『ラ・マルセイエーズ』が完成した日だそうです。噂には聞いていたのですが、その歌詞には残虐な単語が多数登場するので、果たして国歌にふさわしいのかという議論が繰り返されてきたらしいんですね。たとえば、7番まである歌詞でリフレインされる部分を抜粋すると、こんな感じになります。
「武器を持て市民よ 汚れた血が私たちの田畑を潤すまで」
確かに、こんな歌詞を国民全体で合唱されたら、聞く方はかなりおっかない気持ちになりますよね。ただし外国人の僕らは、この歌ができた時代背景を知らずに何かを語ることはできません。
時はフランス革命の真っ只中。絶対主義と呼ばれた王政から、自由・平等・財産または友愛を勝ち取るため、資本家や商工業者を主体とした市民が立ち上がった戦いです。その最中にできた『ラ・マルセイエーズ』は、ある部隊の出征を鼓舞するために贈られた行進曲だったそうです。
そうした戦時中の気分を反映した国家は、他の国にもあります。おそらく僕らがもっとも耳にしているアメリカの『The Star-Spangled Banner』にも、「砲弾が赤く光を放ち宙で炸裂する中でも、我等の旗は夜通し翻っていた」という一節が出てきます。
それらを問題視するのは、「現代でも歌いますか?」というところなのでしょう。こんな物騒な歌詞だから今もって戦火が絶えないと指摘する声もあるようです。
一方で日本の『君が代』は、軍国化を推し始めた明治十三年(1880年)に事実上の国歌として認められました。ただし歌詞は、千年近く前の和歌を引用しています。その内容は、恙なき長寿を願い、なおかつ『君』は年長者を指す言葉でもあったらしいんですね。しかし第二次大戦を経て、旧時代の象徴だからと歌いたくない人が出てきた。
難しいですよね。国民を一つにするためであっても、全員が同じ意見にまとまるものではない。ならば国歌はなぜ必要なのだろう。
その理由、勝手に考えてみました。歌詞とメロディが一体になっていれば、未来の希望も過去の反省も、意外に容易く口ずさめてしまう。つまりメロディが寄り添えば、どんなに鋭く、または気恥ずかしい言葉も、本来の意味とは違った響き方を与えることができる。そもそも国歌は、国の成り立ちや国民性といったややこしい事情を汲まなければならず、であればそこは歌の力を頼ろうと、人類史上そういうことになっているんじゃないかと思うのですが、どうでしょう。

ランニングコース中のこの椅子。廃棄以外の目的でここに置かれているみたい。

 

 

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