阪神の糸原

国内スポーツでは群を抜いて高いとされるプロ野球選手の年俸には、心折れそうな激しいヤジに耐える慰謝料も含まれているんじゃないかと。そう痛切に感じた一件がありました。
近所の焼肉系居酒屋は家族経営で、特にお客が引き始める遅い時間になると、まさしく家族ならではの遠慮ない会話が店内に飛び交うんですね。そんな親戚の家で晩飯を食べているような雰囲気が好きで、僕は常に遅めの時間に席を取ってもらうようにしているのです。
一家団らん感を高めるのは、厨房の一番奥に据えてあるテレビ。そこではたいがいプロ野球中継が流れています。お決まりは、ご主人と奥さんがファンだという阪神タイガース戦。先週の金曜日は、東京ヤクルトスワローズが相手でした。
遅めの時間というと、プロ野球中継も終盤戦に差し掛かるわけです。もはや僕以外に客がいなくなった店内が色めきだったのは、両チーム同点で迎えた9回表。何としても勝ち越したいタイガースは、1アウト2塁の走者をホームに返すべく、代打を告げました。
「糸原ぁ?」と最初にテレビに食って掛かったのは奥さん。それを聞いたご主人はこう言い放ちました。
「打率2割? そんなの、控え選手の中で一番打てないってことじゃないの? ピッチャーを代打に出すよりましってくらいだろ?」
うわって、声が出ちゃいました。僕も草がつくけれど野球をやっているので、チャンスで代打を任される気持ちはそれなりに想像できます。なのにファンからは応援ではなく罵声を浴びせられるなんてしんど過ぎると、この店の声が神宮に届かないことを祈ったくらいです。
「あのねタムラさん」。これは奥さんの事情説明。「前にも糸原が代打に出て凡退しているので、それで私たちは怒っているんです」
なるほど、とは思いました。けれど愛憎も入り混じると怒りが勝っちゃうんですね。そうであれば、僕は初めてその名を耳にした糸原には、ファンからの優しい愛だけを受け取れるよう、このチャンスで汚名挽回していただきたい。
「だから、ほらぁ、もう!」
夫婦の言葉は、そこに含まれた感情まで一言一句シンクロするものですね。結果三振。阪神惜敗。ファンにすれば望まぬ幕切れだったでしょうが、僕は家族のやり取りに心が温まりました。この店、行くなら阪神戦のある日がいいです。あと、プロ野球中継はほとんど見ないけれど、糸原の名前は覚えました。

二十四節気では、まだ夏至の最中。正午前の影は、ほぼ真下でぎゅっとなってる。

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