偶然であれ似たようなことが続くと、何かを試されている疑念に駆られたりします。今回のキーワードは、懐かしさでした。
7月の終わりの、午後10時過ぎ。着信表示に名前がない電話に出てみたら、久しぶりの人でした。某自動車メーカーでかつて広報部にいた同い年。どうしたの? とたずねたら、長男との旅先で、ふと僕との仕事を思い出したというのです。
彼の支援を受けたテレビの企画は、当時少年だった長男も大好きだったらしいんですね。それで「あれはああだった」「これはこうだった」と、代わる代わる電話口に出ては勝手にまくし立てる。彼の長男と話すのは初めてだったけれど、僕よりいろんなことを覚えているのがあまりに奇妙でした。
もうひとつは、10日ほど前の8月中旬。連載企画の取材を別の撮影終了後にセッティングしたというので現場に行ってみたら、ここでも久しぶりのスタイリストとヘアメイクが待ち構えていました。するとやっぱり、否応なく思い出話のスイッチが入るわけです。
その類の記憶がよみがえると、じんわり心が温まります。そのぬくもりに気を許すと、さらに記憶を探ろうとする。けれど僕はいつも、安全弁が自動で働くみたいに、そのサルベージに歯止めをかけてしまうのです。
懐かしさはつまり、固定された記憶の塊から発生する感情ですよね。ゆえに、そこがどんなに優しい温度を保っていようと、一通りさらったら必ず底が尽きてしまう。なのに心地よさに囚われた挙句、気がつけば懐かしさに溺れてしまうのが僕はとても怖いみたいです。ひととき泳いで再び陸に上がれる器用さがあれば恐ろしくないのだろうけど。
年齢の影響も否めません。振り返るたび今日までの道程の長さに辟易するようになりました。その実感から目を背けたいのか、気安く過去を懐かしんだ瞬間、記憶に溺死するぞと自分に言い聞かせているところがあります。老いに対する強迫観念かもしれません。
いずれにしても、久しぶりの人ほど今とこれからの話をしたい。たとえ昔ほどの期待や希望に満ちていなくても、再会をきっかけにして新しい記憶をつくる話題を持ち寄りたい。いや本当に、この歳になると懐かしさほどヤバいものはないと思うのですが、皆さんはどうですか?

ワイヤーが1本欠けたら成立しない構造なんだろうなあと思って。
