勇気について

偏屈な男が覚えた違和感について、勝手に話します。
「勇気を与えられるよう頑張ります」これは、取材に不慣れそうな若いアスリートからよく聞くコメントです。一人二人がそう言うなら個性の類に収められるけれど、わりと誰もが似たことを口にするんですよね。メディア対応の合同講習会を受けた結果のような気もするのですが、これってちょっと不遜じゃないかと思うのです。
そもそも表現であれパフォーマンスで、それを見た人の感じ方は、見せた側で限定するべきではないし、限定できるものでもないはずなんですよね。ただし、お金や時間を費やしてでも見たいと思わせるのは、人並超えた技術力と精神力。なのでアスリートは、とにかく力を磨いて発揮すればいいだけ。その姿から生まれる感動も、見る側の感情によって勝手に芽生えていくから。
だからこそ、何かを与えようなどと言わなくていいんです。自分のことだけで手一杯なのに、他の誰かの配分まで考えたら負担でしかないでしょ。メディア対応を講義する方が読んでいたら、即刻やめさせてあげてください。不遜をお望みなら、悪役覚悟のビッグマウスの伝授をぜひ。
勇気もそうです。これこそ人に与えるものでも、与えられるものでもないはずだから。勇ましい気と書くから荒ぶる魂的な誤解をしがちだけど、本質的な勇気は、恐怖や不安におののく状況を積極的に乗り越えていこうとする気概と行動です。
僕の日常でもっとも勇気が必要なのは、アクアラインやレインボーブリッジなどの高いところをクルマで走るとき。それこそお金と時間が許すなら、遠回りしてでも避けたいくらい、高所恐怖症が深刻化しているのです。いやもう本当に仕方なく通る場合は、ありったけの勇気を体の中から絞り出すしかない。そういう場面では、勇気を与えてくれるというアスリートのスーパープレイなんて思い出せないんだな。
今日の話、退社の連絡を一斉メールではなく、声で伝えたいとわざわざ電話してくれた人に端を発しています。明日から新しい職場に通うそうな。「すごく不安」とつぶやいていたけれど、それも受け入れる覚悟をした勇気に拍手ですね。

巻積雲というらしい。季節の移り変わりを示すものでもないらしい。

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